2020年感染症のパンデミックのなかで、最初に声を上げたのは、中国・武漢の一人の医師だった。また、私たちの暮らしを守るのは、医療従事者や保健所の職員らの献身的な働きだったり、市民の自粛生活だったりする。はて、国は何をしてくれたんだっけ? 私が国に求めていることと、国がしてくれることには大きな乖離があると気づいた。
私の暮らしには、政治の影響はあまりないようにに思われる。一方で、飲食業など、国の政策により暮らしを脅かされた人たちもいる。国は優先順位を決めて政策を実行するが、自分が「No!」と声をあげる時がこの先来るのだろうか。「No!」と声をあげる基準はなんだろう。自分が良ければ、それで良いのだろうか……。
私の考えはいつもそこで止まってしまう。本書『くらしのアナキズム』は、私のように国家や政治について考えるとすぐ思考停止になってしまう人に、読んでもらいたい1冊だ。
本書が挑戦するのは、「人類学の視点から国家を考えること」で、手がかりとなるのは「国家なき状態を目指したアナキズム」である。アナキズムと聞くと、国家に逆らう革命家のイメージが強いかもしれないが、本書では、限定されたアナキズムではなく、国家や支配権力と向き合い、自分たちの暮らしを守ってきた名もなき人びとによるアナキズムを取り上げている。
まずは、自分の頭の中で凝り固まった国家や政治の概念を崩すこと。そして、国家なき社会で生きる人びとの暮らしと、自分の暮らしを重ね合わせて違いを見つめること。この2つの過程を踏むことで、権力に抵抗して日常を送ることアナキズムのイメージが徐々に鮮明になってくる。
第一章では、「そもそも国家とはどのような存在だったのか」について、アメリカの政治人類学者ジェームズ・スコットの『ゾミア』と『反穀物の人類史』から読み解く。メソポタミア文明まで遡り、人類の歴史を紐解くと、国家が誕生してのち、文明から逃れて生きてきた膨大な人々の歴史がある。国家の維持には、労働力と税の確保が欠かせず、そこから逃れることが、人の生存を左右したのであった。一部の人びとは中国南部や東南アジアの山奥に逃げ込み、巨大な「非国家空間=ゾミア」が誕生した。国家が私たちの生活を守るために存在しているという概念は、近年に誕生したのである。
第二章では、政治を「自分たちの直面する問題への対処のこと」と置いたうえで、政府の役割がいかに限られているかを説く。制度が存在していても、それを実のあるものとして現実化するのは、日々の暮らしを営む市民一人ひとりの役割なのだ。コロナ禍の社会でも、現場レベルでの働きがなければ、もっと悲惨な現実になっていただろう。
政治と暮らしが連続線上にあることを自覚する。政治を政治家まかせにしてもなにも変わらない。政治をぼくらの手の届かないものにしてしまった固定的な境界を揺さぶり、越境し、自分たちの日々の生活そのものであると意識する。生活者が政治を暮らしのなかでみずからやること。それが「くらしのアナキズム」の核心にある。
暮らしのなかに政治がある。政治をもっと活発にするためには、他者を寛容に受け入れられるように安全と感じる居場所が必要だ。これを信念として指揮をとる政治家として台湾のデジタル担当大臣のオードリー・タンがいる。政府の政策と市民の役割がうまく噛み合い、政治が機能する実例が近くに存在している。
第三章では政治のリーダーの役割、第四章では自由と平等を保障された社会など、各章では順番に「国家なき社会」の人びとから暮らしの叡智を学んでいく。ここに全部を書けないのが残念だが、彼らの思想と暮らしがいかに理にかなっているか、よく分かるのである。また、人類学を先導する研究者の考察を丁寧に追っていく過程がとても楽しい。
日本でも、「暮らしのなかの政治」が存在していた。宮本常一の『忘れられた日本人』によると、決して多数決で解決しようとせず、誰もが不満をもたないようにコンセンサスをとることが優先されるむらの様子が描かれている。「年より」の弁舌や、女性の世話焼きなど、それぞれが役割を担って、むらを分断と破壊から守ってきた。
今の私たちの暮らしは、政治や経済と分断されてしまっている。社会課題は誰かが解決するものであり、いつまで経っても他人事だ。ご近所にどんな人が住んでいて、どんな課題があるのか、認識することは簡単ではないのが現状である。
でも、本書を読むと、「暮らしのなかの政治」は、目を凝らせば、日常生活において見つけられそうな気がする。「国家は国民を守るもの」「政治は政治家がやるもの」「リーダーは意思決定をするもの」など、間違った思い込みを取っ払えば、アナキストとして具体的な一歩を踏み出せるのではないだろか。