我が家で「G」といえば例のアレである。妻がこの世でもっとも苦手とし、名前すら口にしたくないということで、我が家では「G」と呼ばれている。「G」が出ると私の出番だ。悲鳴をあげる妻をよそに素手でぱっと捕まえる。妻によれば、「この人と一緒になって良かった」と思う唯一の瞬間らしい。ちなみに「G」が現れるのは年に一度あるかないかくらいなのだが。
ところで、東京都庁にも「G」という隠語があるのはご存知だろうか。もっとも、こちらの「G」は都知事を指す。組織の長を意味するガバナー、Governorの頭文字をとって「G」。庁内で知事の名をあからさまに言いづらい場合などに使われるという(ということは悪口や陰口の類なのだろう)。
著者は「G」に切り捨てられた男だ。
きっかけは、2020年3月に『築地と豊洲「市場移転問題」という名のブラックボックスを開封する』という本を出したことだった。中央卸売市場次長などを務めた経験を踏まえ、小池百合子知事の手法を批判したのだ。これが知事の逆鱗に触れ、定年退職後に与えられていた外郭団体の理事長職を解任されてしまった。
著者によれば、都庁に長く勤務していると、ある錯覚に陥るという。「世の中を動かしているのは都庁である」、あるいは「都庁の中で起きていることが世の中の総てである」という勘違いである。なるほど東京都の令和3年度の一般会計の予算規模は約7兆5千億円、特別会計や公営企業会計などもあわせると約15兆2千億円にものぼる。ちょっとした国家規模に相当することを思えば、勘違いするのも無理もないのかもしれない。
著者はこの錯覚を「大きめの井戸の中に住むカエル」にたとえる。井戸の中はきわめて居心地が良い。だがいざ外界に飛び出してみると、案外ちっぽけな(つまりは権限が限定された)地方公共団体に過ぎないとわかる。知事や職員の肥大化したセルフ・イメージを改めるためにも、都庁を一度、丸裸にする必要があるのではないか。本書はそうした意図で書かれた。
都庁の裏も表も知り尽くす著者だけに、面白い話が次から次に出てくる。
例えば、知事周辺では「SS」の存在を忘れてはならない。スペシャル・セクレタリー。特別秘書である。副知事と違って議会承認の必要がなく、知事の一存で任用できる。このためその存在が表に出ることはほとんどない。SSというとナチスの親衛隊を想起するが、職員にとっては似たり寄ったりの存在のようだ。実際、SSに就くのは知事のお友達が多く、過去を振り返っても「筋悪」の人間が多かったという。そうした胡散臭い人物に振り回されれば、「Gがさぁ」と悪口のひとつも言いたくなるのもわからなくもない。
著者が出世するきっかけになったのは、「のりと」担当だった。「のりと」とは、知事のスピーチライターである。所信表明や施政方針を執筆する他、議会答弁の答弁案などもまとめる。著者は石原愼太郎都知事のスピーチライターを2期4年にわたり務めた。
原稿は本人になりきって書かなければならない。しかも石原は作家である。著者は作品を読み漁り、文体や語彙の癖を身につけたという。ひとたび信頼を得ると、知事執務室の裏口から入室して1対1で文面の調整をすることも許されるようになった。
ある時、石原が議会で失言について謝らなければならなくなった。
「きのうの発言を議会で謝りたい。格調の高い原稿を頼むよ」
頼む方は気楽だが、著者に許された時間は、石原が昼食を食べ終わるまでのわずかな時間しかなかった。本書にはこの時の謝罪文も掲載されているが、まさに綱渡りの思いだっただろう。著者は石原から「君は石原慎太郎より愼太郎らしいな」とお褒めの言葉をもらい有頂天になるが、のちに歴代担当も同じことを言われていたと知り愕然とする。政治家の褒め言葉ほど信用できないものはない。
都議会議員との向き合いも気苦労が絶えない。力関係は主従関係に近く、偉そうにふんぞり返る議員の相手をしなければならないのは気の毒だが、ごく稀に上下関係が逆転する場合があるという。都立病院には都の職員が就く医事課長というポストがあり、ある裏ミッションが課せられている。それは、議員からの入院依頼への対応である。
支持者に頼まれた議員が、病床を確保してくれと泣きついてくるのだ。依頼を受けた医事課長は、こんどは病床管理のドクターに泣きつく。患者を平等に扱う医師は、そう簡単に首を縦に振らない。板挟みにあう医事課長はストレスが溜まる一方だという。この手のお願いは与野党問わずどの会派からも年中持ち込まれるらしい。このコロナ禍でもそんな話がまかり通っていないことを願うばかりだ。
本書でもっとも盛り上がるのは、都庁職員の生態かもしれない。著者は不倫事情にも踏み込んでいる。もっとも、データがあるわけではなく、著者の「個人的な肌感覚」に基づく話に過ぎないが、興味深いのは、「若い女性職員と年上の妻子ある男性上司」というベタな不倫よりも、管理職同士の不倫関係のほうが目立つという話である(お互い管理職の年齢ということはW不倫が多いのだろうか。気になって仕方ない)。
不倫に走る理由は人それぞれだろうが、もし職場のストレスが動機のひとつなら、女性管理職には同情を禁じ得ない。というのも、小池知事主催の「管理職女子会」なるものがあり、これが女性管理職を悩ませているという。出席は拒めないし、発言にも細心の注意を払わなければならない。著者によれば、小池知事は、女性の抜てき人事を行っては、使えないとみると、あっさり閑職に異動させるという。ジェンダーフリーを都合よく利用するが、決してその理解者・実践者ではないと著者は厳しく批判している。
では他の知事はどうかといえば、石原は女性管理職というだけで露骨に毛嫌いしていたというから呆れて物も言えない。当時の女性管理職の中には、失望して依願退職した人もいたという。ひどい話である。本書には、鈴木俊一、青島幸男、猪瀬直樹、舛添要一ら歴代知事に対する鋭い人物評もおさめられている。個人的に確執があった小池への批判が多いのは無理もないが、その批判は的を射ている。著者は、小池の本質は「テレビのキャスター」だと喝破する。
かつて都庁は財政危機に直面し、新規採用の凍結や職員の賃金カットが断行された。その後、さまざまな改革によって危機を克服し、都庁の貯金にあたる財政調整基金は1兆円近くまで積み上がった。だが、新型コロナウイルスの感染拡大で事態は一変した。緊急の支出が重なり、財布はあっという間に空になってしまった。ここに今後、オリンピックの追加負担などがのしかかる。また東京には巨大地震のリスクもある。
都は再び危機的状況にある。にもかかわらず、舵取りを行うリーダーを選ぶ都知事選は、「知名度とメディア映りだけが取り柄の知事」を選ぶ人気投票になってしまっていると著者は警鐘を鳴らす。
はたして東京は大丈夫だろうか。なんにせよ、ピンチを乗り越えるのに必要なのはリアリズムである。文字通り都庁を丸裸にした本書を読むことは、その第一歩になるだろう。