余計なお世話かもしれないが、本書を読み終えて、あることが心配になった。このままではSFというジャンルが消滅してしまうのではないか、ということだ。
かつてはSF映画の脚本めいたことを思い付いたとしても、それをフィクションとして記述するに留まったはずだ。しかし今や、あらゆることが現実に実装できる世の中になりつつある。どんな突飛なアイデアも、実装されてしまえば、ノンフィクション。現実がフィクションを凌駕することもあるのだ。
本書は、愛のため科学の力で世の中のルールをぶっ壊した男の物語である。具体的には、難病と診断され余命を宣告されたロボット科学者が、制約から解き放たれるため自らの肉体を実験台にサイボーグとして生きることを決意し、その記録を綴った一冊だ。
英国のロボット科学者ピーターの人生は、右足が思うように動かないという些細な出来事を起点に一変する。MRI、胸部X線検査、血液検査、そして遺伝子検査。膨大な数の検査を受けるもののすべて陰性で、原因がわからない。だがやがて、上位運動ニューロンの脱神経に加え、下位運動ニューロンにも3カ所以上の脱神経が認められ、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断される。
同じ事態に直面すれば、未来に絶望してしまう人も多いだろう。しかし、それをどう感じどう対応するかは本人次第なのだ。ピーターは、死ぬことも、生ける屍のような形で延命することも拒否した。それどころか、五感を無数の電子部品によって増幅し、自身を進化させようと企んだのだ。目的はあくまでも、ALSを宣告されなかった場合よりも長く、楽しく生きること。
広く知られる通り、ALSとは全身の筋肉が動かなくなる難病だ。5年以内に90%の患者が亡くなるといわれるが、ピーターが着目したのはその死因である。多くの患者が食物を飲み込めなくなることによる餓え、および呼吸ができなくなることによる窒息で命を落としていたのだ。
死因を医療ではなくメンテナンス上の問題と捉えるのが、工学博士らしい。胃に直接栄養を送り込むインプットのチューブ。排尿用には膀胱に、排便用には結腸につなぐアウトプットのチューブ。これらの使用を即座に決断する。まさに体内の改修工事だ。
しかしそれは序章に過ぎず、人生を満喫するためのアップデートは加速する。目の動きを追跡する技術を使い、合成ボイスでの会話を可能にする。アバターを作り、自分の表情を再現できるようにする。VRを活用し、動かずして自由な生活を体感する。これらをAIが支えるという仕組みだ。
ここまでくると、人間とは何かということを深く考えさせられる。自分という存在の立脚点は身体なのか、心なのか、脳なのか? リアルとバーチャルが融合した世界では、どこまでが現実なのか?
ピーターをここまで突き動かしたのは、科学の力でもあり、ルールへの挑戦でもあるが、根底にあるのは愛だ。彼と長年苦楽をともにした同性のパートナーへの愛。そしてルールを壊すことで人類を進化させたいという愛。まぎれもなく本書は、サイボーグになった男が語る人間性についての物語なのだ。
※週刊東洋経済 2021年7月10日号