昨年、お昼ご飯にレトルトカレーばかり食べている時期があった。なかでも「エリックサウス」の南インド風チキンカレーの味が気に入って、二日に一度は食べていた。お店には行ったことがないのだが、レトルトで病みつきになった。外出自粛の折、ありがたい限りである。レトルトなんて、という評価はいまどき非常識なのかもしれない。
そのスタンスは本書にもある。「ざっかけない(=ざっくばらんな)」という言葉が何度もでてくるのだ。人気店「エリックサウス」の創業者が、ド定番の「おいしいもの」を一品ずつ語っていく本。中身は、月見うどん、サンドイッチ、チキンライス、幕の内弁当、小籠包、カツカレー、ホワイトアスパラガス…どれもこれも、身近な料理や食材たちである。
さすがは自称「変態料理人」。食へのこだわりがもの凄い。でもグルメが「おいしいものを食べるのが好きというよりはむしろ、おいしくないものを食べることが嫌い」な人たちだとすると、著者は全く別人種である。「おいしいものだけでなくおいしいかどうかわからないもの、時には決しておいしくはなさそうなもの」にまで食指はのびていく。
私はのっけから、「幸せの月見うどん」に共感しすぎて、可笑しさのあまり吹き出した。冒頭でイキナリ著者はこう告白する。世界最高の卵料理は「月見うどんの卵黄を破ってうどんをすする最初の一口」だと。これには「わかる、わかる~」とヒザを叩く人が多数いるのではなかろうか。かく言う私も、その一人である。
玉子二つの目玉焼きはゴルフ場の朝ごはんには欠かせないものだし、中心部が薄く端に行くほど厚いオムライスの卵焼きも美味そのものである。なんなら、コンビニの半熟ゆで卵だって、冷蔵庫にないと落ち着かない代物だ。しかし、月見うどんの生卵とくに卵黄には、それを超越した何かを感じるのだ。
著者は、最初の段階でこの卵黄を破ってうどんをくぐらせるようだ。その後、徐々に汁に馴染んでいく卵黄の存在感を愉しむらしい。一方私が卵黄を破るのは最終局面においてである。素の汁でうどんを愉しみ、最後の麺を卵黄でいただく。そして「卵黄」は汁に混ざる前に、一気にノドぼとけに流し込むという寸法である。
約30年前、とある都立高校の食堂。毎昼220円を握りしめて、私はこの作法で月見うどんを味わったものだ。あのバカバカしいまでのこだわり。少し作法は異なるものの、それをわざわざ本でしたためる変態がいるとは!なんだか可笑しくて堪らなくなって、次の章、次の章と読んでいったら、得も言われぬ幸せな気持ちになった。
著者は京都大学在学中から料理修業をしていた、という変わり種である。飲料メーカーに就職するも、その後飲食店25店舗の展開に尽力。途中ミールスをはじめとした南インド料理にほれ込んで研究を重ね、現地に何度も赴いた。そして、2011年に八重洲に南インド料理店「エリックサウス」をオープンさせ、大成功を収めている。
エリート志向の「美食」に傾くことなく、自らの「おいしいもの」を追求する外連味の無さが、たまらなく清々しい本である。さらに付け加えると、語彙力の豊かさに裏打ちされた「味覚」を文章化するセンスの高さが、この本の価値を高めている。料理王国webでコラムを書いている私は、当たり前のように食エッセイが大好物だ。
しかしこれほど私の胸に刺さった本はない。脱線し過ぎず、押しつけがましさもない。歴史的な作品は一目置くとして、最近読んだ食エッセイのなかでは最上級の評価を献上つかまつりたい。もっとも食そのものと同じく、「偏愛性、変態性」が反映される食エッセイの好みの話など、話半分で聞いてもらったほうが良いことは付記しておく。
キャリアを捨てて飲食店を始める決意をご両親に伝えたとき、猛反対されたという。余計なお世話だが私も「京大卒でなぜ?」と謎を深めながら読み進めた。すると、幼少の頃の食に関する想い出話が度々出てきて、謎は次々に回収されていった。要するに、ご両親をはじめとする親戚の方々も食へのこだわりが異様に強いのである。面白いものだ。
大人たちの行動を観察する幼き著者の目線は、もとより食への深い執着が感じられる。やはり、生まれ持ったものもあるのだろう。遺伝要因+環境要因。中学校の生物で学んだ法則そのままに著者の愛すべき感性は磨かれ、経営する飲食店を通じて提供され、そして本書を通じて私に届いた。もっと広く伝わって欲しいものだ。
かつてのミートソースは今のボロネーゼとは似て非なるもの。オムライスも昔は薄焼きいまはふんわり。カツレツの歴史は、とんかつよりも圧倒的に古いのに、提供する店が減っている。なんてことが思い入れたっぷりに綴られてある。西洋料理のポトフと現在の日本のポトフは別の料理だとか、読んでいて飽きるところがない。
読者は私のように共感したり反発したりしながら、自由に読み進めていくことだろう。いまや具だくさんが常識になっているサンドイッチも、以前はパンの間に薄いハムやキュウリが挟まっているだけだった。言われてみればそうだ。あの辛子マヨネーズとキュウリの舌触り。昭和のサンドイッチ。じつに懐かしい。
このサンドイッチ。とっておきのエピソードがあったので紹介したい。ある日本人女性が、留学先のイギリスで爵位持ち家庭に招かれた。その際に出された具の薄いサンドイッチをみて、「具を一度に挟んでもおいしい」と女性は思わず言ってしまったそうなのだ。しばしの重い沈黙を経て、ご当主はこういったという。
「なぜ英国紳士たる私がわざわざそんなアメリカ人風情の真似事をしなければいかんのかね?」絶対に居合わせたくない場面である。この話を受けて著者は、自分もそんな一本筋の通った頑固ジジイになりたい、と感想を述べる。でも私はここで首をひねった。この英国紳士の清々しさは「すでに」本書のなかに息づいている。