『完落ち 警視庁捜査一課「取調室」秘録』
落としのプロはいかに犯罪者を自供させたか
2021年1月24日、伝説の人物が亡くなった。元警視庁捜査一課長の寺尾正大氏である。78歳だった。亡くなられていたのがわかったのは2月に入ってからで、新聞もテレビもこぞって「ミスター一課長」の死を報じた。地下鉄サリン事件という歴史的事件の捜査の陣頭指揮を執ったこともあってこれだけの扱いになったのだろう。追悼記事にあった「癖の強い異能の刑事を使うのがうまかった」という元捜査幹部の言葉が印象に残った。
優れたリーダーのもとには優秀な人材が集まる。
寺尾氏が率いた捜査一課がまさにそうだった。
先日のエントリーで紹介した『警視庁科学捜査官』の服藤恵三氏も寺尾氏に見出されたひとりである。科学者としての能力を買われ、オウム真理教の捜査に投入された。そしてオウムの科学部門の全容解明に貢献し、史上初の科学捜査官となった。
本書の主人公、大峯泰廣氏は、寺尾氏がもっとも信頼を寄せた部下である。
並外れた取調べの技量を持ち、犯人を“落とす”ことにかけては右に出る者がいない。大峯氏もまた伝説の刑事だった。
本書は、大峯氏が数々の難事件で犯人をどのように追い詰めたのか、取調室の内側を初めて明かした回想録である。首都圏連続ノックアウト強盗致死事件、ロス疑惑、宮﨑勤幼女連続誘拐殺人事件、地下鉄サリン事件、練馬社長宅三億円強奪事件、証券マン殺人・死体遺棄事件、昭和から平成にかけて世間を騒然とさせた数々の大事件の現場に捜査員として関わった。その内幕となればこれはもう一気読み間違いなしである。『警視庁科学捜査官』同様、警察ノンフィクションの収穫のひとつに数えられる一冊だ。
大峯氏は1948年生まれ。もともと刑事向きの性格ではなく、小学生の頃はいじめられっ子だったという。中学生の時にTVドラマ『七人の刑事』に夢中になり、自分も刑事のように強くなりたいと剣道に打ち込んだ。学校卒業後、当時の専売公社に入社したものの、刑事への憧れやみがたく、24歳で警察官を志す。最初の交番勤務から職務質問で才能を発揮し、自転車泥棒を次々に捕まえた。刑事への道が拓けるのに時間はかからなかった。
考えてみれば、寺尾氏も大学卒業後に民間企業に勤務している。伝説の警察官ふたりが「回り道」を経験しているのは実に興味深い。ふたりの関係は古く、初めて会ったのは、高円寺の現場だったという。大峯氏が捜査一課に配属されて間もなく、高円寺駅近くの路上で、初老の男性が頭から血を流して死亡しているのが発見された。この時、現場で指揮を執ったのが係長だった寺尾氏である。大峯氏とは6歳違い。ここから生涯にわたる付き合いが始まった。
本書で大峯氏は、さまざまな取調べのテクニックを惜しげもなく披露している。
取調べでは相手の身の上話などをとことん聞く。これは刑事に親近感を抱かせる効果もあるが、相手の話をじっくり聞くことで、逆に犯人は追い詰められたような心理状態になるのだという。なぜなら全てを話し終えてしまえば、残るのは「犯罪」の話だけと犯人が自覚し始めるからだ。そのプレッシャーを利用して、犯人を諭すのだという。座る位置も、相手の背中が壁際に近くなるよう机を寄せ、さりげなく圧迫感を与えたりもする。“落としの名人”は人間心理のプロだった。
こうしたテクニックに熟達する一方、大峯氏はジンクスも大切にしていた。
ジンクスを重んじる刑事は多い。お茶汲みは新米刑事の仕事だが、気を利かせて先輩の茶碗を洗っておいたら、「茶アカが落ちるとツキが落ちる」と凄い剣幕で怒られたというエピソードもあるくらいだ。大峯氏が唯一大切にしていたジンクスは、捜査期間中にそばやうどんなどの「長いもの」を食べないことだった。捜査を長引かせないようにという験担ぎである。
だが、大峯氏が関わることになった事件の多くは難事件である。簡単に事件解決とはいかないものばかりだ。取調べでも容疑者とのあいだで神経をすり減らすような攻防が行われた。大峯氏は相手の呼吸や目の動き、表情のわずかな強張りなどをひとつも見逃すまいと集中している。そんな中、ふと容疑者が漏らした言葉が捜査の突破口となることもあった。幼女連続誘拐殺人事件では、宮﨑勤が漏らした「有明」という言葉を聞き逃さなかった(この時のやり取りの音声テープを後にフジテレビがスクープした。詳しくはこちら)。
限られた時間で供述を引き出さなければならないこともあった。練馬社長宅三億円強奪事件では、容疑者の小田島鐡男が香港から帰国したところで任意同行し、警視庁に向かう車中のわずか2時間ほどで犯行を認めさせなければならなかった。まだ逮捕状はなく、小田島は「参考人」に過ぎない。逮捕状をとるには自供が必要だった。寺尾氏に「勝負しろ」と命じられた重圧は相当なものだったろう。大峯氏は小田島にブラフをかけ、犯行を自供させることに成功した。小田島は懲役12年の実刑判決を受け服役するが、仮出所後まもなく、マブチモーター社長宅殺人放火事件を起こし世間を震撼させた。その後、死刑が確定したものの、執行を前に病死している。
“落としの天才”を焦らせた相手もいた。オウム真理教の土谷正実である。どんな話題を振っても、口を固く閉ざし、表情を変えない。両親と会わせたり、空気を変えるために夕暮れ時に築地署の屋上に連れ出したり、ありとあらゆる手段を試みたが、土谷の洗脳は解けなかった。
『警視庁科学捜査官』にあるように、寺尾一課長はこの時、土谷と同じ科学者の服藤氏を築地署に差し向けている。服藤氏は科学者にしかできないやり方で土谷を動揺させた。本書はこの連携に触れていないが、おそらく大峯氏はその機会を逃さなかったのだろう、ある“殺し文句”を囁き土谷を落とす。土谷の信仰心を逆手にとった一言だった。どんな言葉かはぜひ本書で確かめてほしい。それにしても、信頼を置く部下二人が見事に土谷を全面自供させたことは、寺尾氏が慧眼の士であったことを証明している。
大峯氏はその後、未解決事件の担当となり、世田谷一家殺人事件を洗い直す中で、初動捜査に不正があったことを見つけてしまう。捜査員の中に35通もの虚偽の捜査報告書を上げていた者がいたのだ(この事実は報道され大問題になった)。新たな手がかりを見出し、公開捜査を上申しても上層部の反応は冷たい。失望した大峯氏は警察を去ることを決意する。
失敗も率直に語る大峯氏の姿勢はフェアで、読んでいると腕のいい職人の語りを聞いているような気持ちになる。気に入らない物事への物言いが辛辣なのもいかにも頑固な職人だ。例えば『君は一流の刑事になれ』(後に『現着:元捜一課長が語る捜査のすべて』として文庫化)で話題になった久保正行氏とはよほど相性が悪かったようで、その人物評が散々なのには笑ってしまった。
「生まれながらの犯罪者なんていないんだ」
大峯氏はそう断言する。血も涙もないような凶行に及んだ犯罪者たちと取調室で多くの時間を過ごしてきた刑事の言葉にしては、意外なものに思われるかもしれない。だがこれが実に含蓄に富んだ言葉なのだ。本書を読めば、この言葉の真意を知ることができるだろう。