2018年、イングランドのソールズベリーでセルゲイ・スクリパリと娘のユリアを標的とする毒物暗殺未遂事件が起きた。セルゲイは元ロシア軍大佐で英国の対外諜報機関MI6に情報を提供していた人物だ。ロシアで逮捕された後、スパイ交換により英国に亡命していた。
事件はロシアのプーチン大統領の指示によりFSB(ロシア連邦保安庁)が実行したもので、当然、英国の主権を侵害している。だがこれも、英国で行われたロシアによる暗殺事件の一例にすぎない。
本書はバズフィード・ニュースの国際調査報道エディターであるハイディ・ブレイクと彼女のチームがプーチンによる暗殺事件を追った調査報道をまとめたものだ。
中心となるのは、新興財閥オリガルヒの一員でプーチンと対立するベレゾフスキーとその側近たち。側近の中でもとくにクローズアップされるのがアレクサンドル・リトビネンコとスコット・ヤングだ。
リトビネンコは元FSB職員で、チェチェン独立派の仕業とされた「ロシア高層アパート連続爆破事件」にFSBが関与した証拠を追い続けた人物だ。彼は放射性物質ポロニウムを工作員に飲まされ殺害された。ちなみに、この事件の捜査で発見の難しいポロニウムを特定した英国の科学者も謎の死を遂げており、それはクレムリンの怒りを買ったためと見られている。
ヤングは英国民で、麻薬の売人、武装強盗を経て投資家に転身した富豪だ。彼も不可解な最期を遂げる。ほかにもベレゾフスキーの側近ら十数名が不自然な死に方をしている。多くは事故、自殺、自然死として扱われたが、MI6とCIA(米中央情報局)は彼らが暗殺されたと確信している。
他国で容易に暗殺を行えたのはなぜか。まず大きな理由は、ロシアが自然死に偽装可能な毒物の開発に成功していることだ。うつ病を誘発する薬や、急速に癌(がん)を発生させる放射性毒物など、その種類は多岐にわたる。地元警察ではそれらを見抜くことは難しい。
また、9.11同時多発テロにより中東が差し迫った脅威になったことも大きな要因だ。MI6の予算は中東担当の部局に注がれ、ロシア担当の部局からは予算も人員も削られ続けた。さらにロンドンの金融街はロシアンマネーに依存しており、ロシアとの政治的軋轢を恐れた英国政府がたびたび捜査にストップをかけていたことも明かされている。
ベレゾフスキーも不可解な自殺を遂げている。CIAは彼が殺されたと分析しており、その原因は、彼がウクライナの「オレンジ革命」で大きな役割を担ったこととしている。
近年、ロシアの暗躍がすさまじい。さまざまな国へのサイバー攻撃や、フェイクニュースを駆使して他国の国民間の憎悪を煽(あお)る分断工作などが確認されている。
16年の米国大統領選挙でロシアがフェイクニュースを拡散させ、選挙に大規模介入をしたことは記憶に新しい。ロシア以外にも中国の「超限戦」など、一部の国が平時において武力を用いない新たな戦争を他国に仕掛ける姿が浮き彫りになってきている。
本書で取り上げられる暗殺事件もその戦略の一部と見るべきであろう。厳しさを増す国際情勢の一端を知ることのできる一冊だ。
※週刊東洋経済 2020年12月19日号