来年の3月11日で東日本大震災が発生してちょうど10年になる。9世紀以来というマグニチュード9クラスの巨大地震が発生し、日本列島は地震と噴火が頻発する「大地変動の時代」に突入した。
それ以降、寺田寅彦の著作が以前にも増して読まれるようになった。彼は大正12年(1923年)の関東大震災を東京で体験し、科学エッセイにその状況をつぶさに書き残しているからでもある。
『ピタゴラスと豆』にはプロフェッショナルの目で見た詳細な記述がある。まず大正12年9月1日(土曜)の記事を読んでみよう。
急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌(きづち】で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短周期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。(『ピタゴラスと豆』、271ページ)
専門の地球物理学者が実際に巨大地震を体験した、後世に残る極めて貴重な記録である。激しい揺れに翻弄されながらも、寺田はいま起きていることを冷静に観察する。そして彼の思考は郷里の高知で母が経験した1854年の安政南海地震のエピソードへ向かう。
その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、ちょうど船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。
仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い周期でみしみしみしみしと音を立てながら緩やかに揺れていた。(271ページ)
これらは地震学の基礎として習う内容だが、初動の縦揺れ(P波)の次に大きな横揺れ(S波)がやってくる記述である。
主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長周期の波ばかりになった。(271ページ)
そのあと寺田は、木造家屋が倒壊して立ち登る土埃(つちほこり)の臭いからその後の大火の発生を予測する。実は、関東大震災で亡くなった約10万人の犠牲者の9割が地震後の火災旋風によるものだったのである。大学の様子を見に行った彼は同僚から詳しく話を聞く。
隣のTM教授が来て市中所々出火だという。縁側から見ると南の空に珍しい積雲が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全くちがって、先年桜島大噴火の際の噴雲を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された。(275ページ)
これは大地震にともなって起きる「火災旋風」と呼ばれている現象で、人口の多い木造密集地域を焼土と化してしまう。現在でも首都圏でマグニチュード7クラスの直下型地震が起きた際に懸念されている(拙著『京大人気講義 生き抜くための地震学』ちくま新書)。そして寺田は地震発生の2日目にこう記述する。
浅草下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と炎の海である。煙が暑く咽(むせ)っぽく眼に滲(し)みて進めない。(中略)駿河台は全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被せてあった。(277ページ)
関東大震災を経験した寺田の議論はいまだに有効で、現在の日本列島を考えるためにも非常に役立つ。我が国では首都圏を初めとする大都市に人とシステムが集中し、その勢いは関東大震災後はおろか東日本大震災の後も留まることを知らない。
そして90年以上も前の寺田は、関東大震災の直後から「災害を大きくしたのは人間」という卓見を表明した。
すなわち、もともと自然界に蓄積されたエネルギーには良いも悪いもなく、そのエネルギーを災害として増幅させてしまうかは、人間の所為によると喝破したのだ。たとえば、彼は「天災と国防」というエッセイで「災害を大きくするのは文明人そのもの」と記している(『天災と日本人』角川ソフィア文庫に収録)。
実は、地震や噴火など自然災害への対処法について、一般市民へ真剣に語りかけた研究者は、寺田が最初である。市民みずからが地震などの正しい知識を持つにはどうすれば良いかについて、彼は真剣に模索した。
試行錯誤を繰り返した彼は、結局「自分の身は自分で守る」姿勢を作らなければ災害は軽減できないと考えた。よって、地震や噴火など不定期に突発する災害に対して平時から危機感をもつように、市民向けのエッセイで説き続けたのである。
まさに現代社会の問題を予言したものであり、彼の主張内容がまったく古びていないことに驚く。日本人は世界屈指の地殻変動帯に住みながら、地震と津波に対する防御が依然として極めてお粗末である(拙著『京大人気講義 生き抜くための地震学』ちくま新書を参照)。
彼は数多くの随筆を残したが、その多くは世間の人たちが自然科学に理解がないことを憂いて執筆されたものだ。寺田は10万人以上の死者を出した関東大震災の原因の一つに知識不足があることを見抜いた。正しい知識がなかったため、災害時にとんでもないデマ(流言)が流布し、犠牲者が増えたからだ。
彼は関東大震災のような惨事を起こさないためには、正しい知識が必要であると考え、教育で自らが身を守ることを教えなければならないと考えた。
身近な現象を科学の眼でみつめるユニークな視座は、「寺田物理学」とも呼ばれる。1878年(明治11年)に東京で生まれた寺田は、高知で育ったあと東京帝国大理科大学実験物理学科を卒業した。後に理学部教授を務めながら、夏目漱石をめぐる文壇の一員としても活躍した。
ちなみに彼は、漱石の小説『三四郎』に登場する科学者の野々宮荘八のモデルとしても有名である。ノーベル賞級の世界的な研究業績を残しただけでなく、自然と人間の行動に関するユニークなエッセイを数多く執筆し、科学啓発のパイオニアとして現在でも高く評価されている。
『ピタゴラスと豆』巻末の角川源義氏の解説にもあるように、本書はかつて岩波書店から同名の単行本が刊行され、後に角川文庫に入った。科学者が書いたエッセイとしては非常に芸術感覚に富み、科学と文学が見事に調和した珠玉の作品となっている。
私は高校生の頃、寺田に強く惹かれて随筆を読みあさっていたことがある。大学の教養課程で進学先を選択する際、理学部の地学科を選んだ理由には彼の影響があった。寺田の守備範囲の一つであった地球科学を専攻するというだけでなく、彼の考え方はその後の私の生きざまにも影響を与えることとなった。
そして23年前に京大に着任してから「地球科学入門」の講義で、寺田のエッセイを「中古典」として学生たちに薦めてきた。『ソクラテスの弁明』や『方法序説』が大古典であるとすれば、本書や『アラン幸福論』『氷川清話』などの中古典は身近ではるかに読みやすい近現代の名著とも言えよう(拙著『理学博士の本棚』角川新書を参照)。
本書のエッセイは科学者にしか書けない深い思索に基づいた珠玉の短編である。寺田の残した文章を味読するとともに、「大地変動の時代」をどう生き延びればよいかについて考えを巡らせていただきたいと願う。