エレホン国はどこにある?
このところ、昔の本をいくつか読みました。300年前に書かれたモンテスキューの『ペルシア人の手紙』。100年前に書かれたバージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』。そしてこのたび読んだのが、150年前に書かれたサミュエル・バトラーの『エレホン』です。共通点は、いずれも初訳ではなく新訳だということ。現代の読者のために、われわれに伝わりやすい言葉でよみがえった作品、と言えるかと思います。
この3冊のうち、とりわけバトラーの『エレホン』は、SFのはしりとも言われるらしいのですが、奇妙な力で現代人の心に波を立て、脳みそに負荷をかける、特異な作品だと思いました。そこでこの作品の不思議さについて、私なりに少し書いてみたいと思います。
そもそも「エレホン」というタイトルですが、綴りは Erewhon 。英語のnowhere を、(ほぼ)逆から綴った言葉です。そう、それは「どこでもない場所」、ギリシャ語の「ユートピア」に相当する英語を、逆から綴った言葉なのです。著者サミュエル・バトラーは、何が言いたかったのでしょう?
その物語の語り手は、若いイギリス人男性。作中ではその名は明かされていませんが、『エレホン』刊行から30年後、サミュエル・バトラーは『エレホン再訪』という作品を発表しており、その中で、語り手の名前は「ヒッグス」であることが明かされています(え? ヒッグス? と思った人は私だけではないですよね?(笑))。ここでは便宜上、語り手のことを、ヒッグスと呼びたいと思います。
さてヒッグスは、新天地で一旗あげようと、大英帝国の植民地のどこかに行きました。彼は、その植民地がどこかを明かそうとしません。なぜなら、その土地にはたいへんな秘密があり、もしもヒッグスの企てが成功していれば(作中では、彼は企てを成功させるどころか、命からがら脱出したことになっています)、キリスト教史に名前を残すであろう偉業を成し遂げ、大金が転がりこんできたはずだったからです。今、その土地を明かせば、自分を出しぬいてその名誉と大金を手にする者が出てくるかもしれないので、場所は教えられないと言うのです。
とはいえ、実際には、その場所はニュージーランドの南島がモデルになっていると考えてよさそうです。というのも、サミュエル・バトラー自身、英国からニュージーランドの南島にわたり、牧羊業でひと財産を築き、英国に戻ってからは悠々自適の--少なくとも、経済的には何不自由ない--人生を送った人物だからです。『エレホン』には、バトラーがニュージーランド南島で経験したであろう詳細が書き込まれて、作品にリアリティーを与えています。
さて、ヒッグスがニュージーランド南島に(とは、作中には書かれていないのですが)に渡ってみると、牧羊に利用できそうな土地はすべて、すでに利用され尽くされていました。そこでヒッグスは、牧羊に適した土地を探して、思い切った冒険旅行に出発します。危険な山岳地帯を越えて(わたしだったら3回ぐらい死んでいそうな冒険で、ヒッグスは体力的にかなり恵まれているようです)、どうにかたどり着いたのがエレホン国でした。
エレホン国の人びとは、体格にも健康にも容姿にも恵まれ、穏やかで上品な教養ある人ばかりであることに、ヒッグスは驚きます。このあたりからだんだん奇妙な気配が漂ってくるのですが、実はエレホン国は、生まれと育ちに恵まれなかった人たちは、社会から排除される仕組みになっていたのです! 裕福で社会的影響力のある人たちは、不道徳なことをやらかしても「お仕置き」程度の制裁ですみ、その影響力ゆえにその後もリスペクトされ続けるのに対して、体力や体格に恵まれなかったり、生まれた環境のせいで教養にも恵まれなかった人たちは、たとえそれが「本人のせい」ではないにしても、「罪はその人に内在する」とされて、排除されてしまうのです--社会も、そして排除される当人さえも、その論理を受け入れています。
ここで誰しも思うのは、「これって、現代社会の実相を風刺しているのでは?! サミュエル・バトラーは、150年後のわれわれに警告を発しているのでは?!」ということではないでしょうか。実際、エレホン国に関するこのあたりの記述には、あちこちで、「われわれの社会は、一皮剥けば、ここに書かれている通りの世界だ…」と思わされるものがあります。
バトラーは、未来の世界に警告を発しているのでしょうか?
そうではないでしょう。頭を冷やしてよく考えてみると、未来社会もなにも、当時のイギリスこそは、情け容赦なく社会的弱者を切り捨てる「自由主義」がバリバリに横行していた時代だったことが思い出されます。アイルランドのジャガイモ飢饉のときも、自由な取引こそは社会にとって大事なのだとする立場から、アイルランドから引き続き穀物がイングランドに輸出されていたのでした。また、「ちゃんとした家」には複数のメイドがいるべきとされ(ちゃんとした家の奥様がゆで卵ひとつ作るのさえ、「文明への冒涜」とされた時代..)、使用人たちは救貧院で一生を終えることもめずらしくなかった(参考文献:パメラ・ホーン著『ヴィクトリアン・サーバント-階下の世界』栄宝社)。労働者階級に余暇は無用とされ、可能な限りの時間を労働に費やさせるのが、彼らのためだとされていました。(ちなみに、生産性を上げるためには余暇が重要だし、そもそも企業のためにも消費者を育てなければならないと、実験データにもとづいて主張したのは、アメリカのヘンリー・フォードでしたね。)
では、エレホン国とは、「どこでもない場所」の反対の場所(どこも一皮剥けばエレホン国)なのでしょうか? もしかしてバトラーは、当時のイギリス社会を風刺していたのでしょうか?
そうではない、と言ってよさそうです。たしかにヒッグスは、エレホン国のさまざまな制度や文化に驚いてはいます。けれども、批判しているかと言うと、必ずしもそうとも言えないのです。なにより、サミュエル・バトラー自身、その生涯を通じて、「身体的にも知性的にも恵まれ、経済的にも裕福であることは、神の恩寵である」という信念を持ち続けた人物だったのです。(参考文献:バジル・ウィリー著『ダーウィンとバトラー―進化論と近代西欧思想』みすず書房。)そんなバトラーにとってみれば、エレホン国の人びとこそは、まぎれもなく神の恩寵を受けた人たちであるはずなのです。
今、直前のパラグラフで参考文献として挙げた『ダーウィンとバトラー』という書名を見て、「あっ! あのバトラーか!」と思い当たった人もいるかもしれません。昆虫採集大好き少年が大人になったような田舎紳士だった(論争などできない)ダーウィンに代わってダーウィン進化論を擁護したC・H・ハクスレーが「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれたのに対し、「あの大ダーウィンに論争を挑んだ輩」として「ダーウィンに噛み付いた野良犬」などと悪口を叩かれることもあった、サミュエル・バトラーです。
実はバトラーは、キリスト教(当時の英国で流布していたタイプのキリスト教)から若くして離反し、ダーウィン進化論にも(いったんは心酔して支持したにもかかわらず)敵対しています。「キリスト教v.sダーウィン進化論」という対立項の両方に、バトラーは対立したわけです。なぜ対立したのでしょうか? その理由がなかなか興味深いので、ひとこと触れておきたいと思います。
キリスト教に対しては、奇跡とか復活とか、ありもしないこと(彼は聖書の記述を丹念に検討して、あり得ないという結論に達した)を人びとに教え込んでいることが許せなかった。ダーウィン進化論に対しては、ランダムな突然変異がなぜ起こるのかを明らかにしていない、つまり、不確かな基礎のうえにでっちあげた理論だから許せなかったようです。なお、ランダムな突然変異のメカニズムが明らかになったのは20世紀の後半ですから、バトラーのダーウィン進化論に対する不満は、時代の先を行き過ぎていた….というより、「やれることからやっていく」というのが科学的態度だとするなら、バトラーの「科学的態度」は、科学を少々履き違えていた、あるいは潔癖すぎたと言うべきかもしれません。進化論に関連して、もうひとつ重要なポイントは、バトラーは終生、目的論を堅持したということです。目的論を否定するランダムな突然変異による進化は、とんでもない邪説だというわけです。
ここで、当時のイギリス社会の状況に話を戻し、バトラーは社会批判なり社会風刺なりをしようとしたのか、という問題ですが、たしかに、当時のイギリスでは労働者階級の状況があまりにも悲惨だったので。社会改革に乗り出す人たちもいました。が、少なくともバトラーはそうではなかった。『エレホン』は、ストレートな意見や主張の本ではありません。この本を読んで心がざわざわする原因は、わたしたちの中にあるのだと思います。
シンギュラリティ
さて、『エレホン』の現代性という点で注目されるのは、シンギュラリティ(技術的特異点)が「予言」されていることでしょう。エレホン国は、500年前に起こった革命のために、機械文明を放棄しているのです。エレホン国にやってきたヒッグスは、この国には、ごく初等的な道具以外の機械がないことに気づき(博物館には、多少高度な機械が集められているのですが)、たいへん奇妙に思います。そして、機械を放棄するという過激な革命のきっかけとなった本を、ヒッグス自身が翻訳して紹介しているのです。
問題の本に説かれた論理を、わたしの言葉でかいつまんで紹介すると、だいたい次のようになるかと思います。その本の著者は、レウキッポス=デモクリトスの原子論を知的背景として、ニュートンの力学体系を突き詰めて決定論を導き出し、そこから自由意志を否定し、自由意志がないとすれば人間と機械とのあいだに本質的な違いはなく、機械の進化の速さをかんがみるに、人間はかならずや機会に追い抜かれ、機械に支配される時が来るであろう。そうなる前に、機械は排除すべきである、ということになるかと思います。まさしく、シンギュラリティが来る前に機械を放棄せよ、という訴えです。
で、エレホン国の人たちは実際、シンギュラリティが起こらないように、機械文明を放棄したのでした。ヒッグスは、不思議なことを考える人たちだなぁ、と思っているように見えます。では、バトラーはどうなのか? 彼は、シンギュラリティを、そしてシンギュラリティに対するエレホン国の対応を、どのように考えていたのでしょうか? もしかしてバトラーは、150年後のわれわれに、何か警告を発しようとしているのでしょうか?
実は、革命の原因になったという「シンギュラリティ本」の内容は、『エレホン』を書く前に、バトラー自身が執筆した論考なのです。それをほぼそのまま転用したらしいのです。いわば、彼自身の論文の使いまわしですね(参考『ダーウィンとバトラー』)。では、バトラーは、シンギュラリティが来ると考え、イギリス人に警告しようとして、その論文を書いたのでしょうか? どうもそういうわけでもなさそうです。
実は『エレホン』には、シンギュラリティの危険性を訴えたその問題の本に対する反論も紹介されているのですが(その反論の趣旨は、機械は人間の機能を拡張するものとみなすべきである、というものです。まあ、攻殻機動隊の草薙素子は機能を拡張された人間にほかならない、と主張するようなものですね)、その論文もまた、バトラー自身が以前に書いた論文の使いまわしなのです。彼は機械の進化について、両方の立場から論文を書いているのですね。
どうやらバトラーは、豊富な科学知識を駆使して、興味を持ったテーマでとことん突き詰めた思考実験をしてみるのが好きだったように見えます。『エレホン』には、シンギュラリティのほかにも、今日の言葉で言うなら「植物知性」や「動物の権利」について、エレホン国での議論が紹介されています(それらもバトラー本人の考察の転用のようです)。現代人にとっては、ハッとさせられるテーマですよね。
また、これら科学的なテーマのみならず、社会的な分野でも、ここで取り上げた弱者の排除というテーマ以外に、われわれにとっては「!?」といういくつかのテーマが、エレホン国の制度や文化として紹介されているのです。そうした問題意識のなかに、鋭く現代に通じるものがあるのは間違いありません。しかし、バトラー自身は、社会改革のための運動家ではなく、科学的なテーマについても、何かをストレートに主張してはいないように思われるのです--少なくとも、この作品中では。
『エレホン』を読んで何かを主張したくなるのは、読者であるわれわれのほうなのでしょう。150年後のわれわれに驚くほどダイレクトに訴える不思議な力が、本書にはあると思います。
『エレホン』を読んでいると、魔術師バトラーが吐き出す煙に、幾重にも巻かれているような気分になってきます。煙に巻かれてあたふたしているうちに、ふと、煙の薄いあたりに人影が見えたような気がする。じっと目を凝らすと、そこに見えるのは自分の姿だった….。そんな経験をさせられる本なのです。エレホン国で、思わぬ自分に出会うことになるかもしれませんよ?
最後に、美しい装丁に触れておきたいと思います。『エレホン』は、黒いカバーが額縁のようになっていて、美しい風景画が飾られている。エレホン国の風景でしょうか? で、カバーをはずしてみると、聖ヒエロニムスが現れるのです。そこに含意があるにせよないにせよ、心を奪う美しい装丁であることに間違いはありません。