病気、それも大きな病気を経験した人の多くは「食べることの喜び」をしみじみと感じる瞬間を経験したはずだ。手術をすれば何日も食事が許されないことがある。慢性の病なら様々な食事制限もある。カロリー制限、塩分制限、糖分制限、脂肪制限、たんぱく質制限云々。がんで抗がん剤治療を受けると、吐き気や食欲不振などに苦しんで「食べていい」と言われても食べられないということもある。抗がん剤治療により白血球数が減少すると、場合によってはより厳しく衛生に気を配った食事をしなくてはならないこともある。
なんの不安もなく、食べたいものを食べたい時に食べられるというのは、実はとても贅沢なことだ。
が、「食べること」にまつわる様々な経験も、癒える病であれば、いつの間にか忘れていく。ときどき「あの時はつらかった」と思い出しつつ「暴飲暴食は避けよう」というほどの教訓を得て。
しかし一旦患ったら、そんな生易しいことではすまない病気もある。
「潰瘍性大腸炎」は、そんな病の一つだ。
この病名は、つい最近安倍前総理の退陣の理由として、ニュースなどで見た方も多いと思う。
本書の著者・頭木弘樹さんも潰瘍性大腸炎の患者である。それも重度の。日本では最も患者数の多い指定難病でその数は20万人以上。その名の通り大腸の粘膜に炎症が起こり、潰瘍ができる。潰瘍ができる範囲は「直腸のみ」あるいは「大腸の半分まで」から「大腸全体」に及ぶこともあり人によって違う。さらに重症度は患部の範囲だけで決まるわけではない。
炎症がどれくらい激しいか、炎症が治るかどうか、薬が効くかどうか、いろいろある。
炎症が軽ければ下痢ですむが、炎症がひどくなると、血便になる。さらに、私の場合のように、もう血ばかりが出るような感じに。粘液もたくさん出ているらしく、粘血便と呼ばれる。内臓が溶けて流れでているかのようだった
潰瘍性大腸炎はいったんなると、もう一生、治らない。だから難病。
寛解と再燃をくり返すのが一般的で、「再燃寛解型」と呼ばれる。私はまさにそれだった。
炎症がずっと持続する場合もあり、「慢性持続型」と呼ばれる。
同じ「再燃寛解型」でも、寛解してから再燃するまでの期間は、人によってかなり差があり、寛解期が十年以上続くなんて人もいる。一方、薬を減らせばたちまち再燃してしまう人もいる。
同じ型とは思えないほど、差がある。
私の場合は、薬を減らすと、再燃してしまうほうだった。長い寛解期を得ることはできなかった。
まだ二十歳の大学生の時に発症した著者は、否応なく「食べること」の困難さと24時間365日休みなく立ち向かわなくてはならなくなった。本書に詳しく描かれているその実態は「壮絶」の一言だ。できる限り大腸の負担を減らすために、食べてはいけないものがたくさんある。まず脂肪がダメ、ということは霜降り肉とかマグロとかブリとかもダメ。食物繊維もダメ、なのでゴボウとかレンコンとかもダメ。キノコ類も全てダメ。イカやタコもダメ。刺激物もダメなので香辛料、どころかコーヒーや紅茶もダメ、アルコールもダメ、甘いものもダメ。なんと果物もダメ。酸味や甘味がつよいと刺激になるらしいが、驚いたのはイチゴがダメ。種が取り除けないからだそうだ。そうか、イチゴの表面のあの小さなブツブツすらダメなのか。一体何を食べればいいんだろうという厳しさだ。大腸に負担をかけないような食物を選び、負担をかけないような少ない量を食べる。だから「高タンパク、高ミネラル、高ビタミン、高カロリー、低脂肪、低残渣」のものを食べなさいということだ。が、高カロリーのものは往々にして高脂肪だし、高ミネラル高ビタミンの野菜や果物などは高残渣=食物繊維が多い。矛盾だらけの中で、毎日毎日何を食べるか、何が食べられるのか葛藤する。どこまで食べたら「再燃」するのか、個人差が大きいこともあって、最後は一口一口食べながら見極めていくしかないのだそうだ。食べることに失敗したら、即下痢、下手をしたら再燃、なのである。
長年こうした日々を送りながら、頭木さんの感覚は研ぎ澄まされていく。「食べることは危険」という日々のなかで、「警戒心」は他のことにも広がっていくのだ。
外から内に入れる、すべてのものに。
空気が汚れているのも気になってくる。肌につけるものも気になってくる。
さらに、外の世界全体への警戒心も高まっていく。
危険が強く意識され、受け入れがたくなってくる。
つまり、食べづらさは、生きづらさにつながっていくのだ。
そんな視点から「食べることと出すこと」に向き合う頭木さんの考察は、やがて、病であろうとなかろうと、極めれば「食べて出す一本の管である人間」が、食べるという行為にどんな意味をもたせているのか、出すという行為が人の心にどんな支配を及ぼしているのかへと向かっていく。
特に何を意識することもなく「もりもり食べられる」ことが社会に適応する上でいかに強い力となるか。それと裏腹に、「食べない」あるいは「食べられない」人がコミュニティでいかに居心地の悪い思いをしているか。
たしかに「同じ釜の飯を食う」ということで絆が強まるという考え方は根を張っている。最近では職場などで食事会を強制するのはよくないという声も市民権を得つつあるが、では家族なら?といえば、同じ食卓を囲んでこそ家族、という言に反論するのは難しい。一人で食べる「孤食」は問題だと巷では喧伝されている。「食事はたんなる栄養補給ではなく、コミュ二ケーションと密接な関係がある」と。
私自身、人と一緒にご飯を食べることが苦ではないので、ごく自然にそんな考えでいたように思う。が、そうした「食は絆」という考えには実は暴力性も潜んでいるのだということを、頭木さんは浮かび上がらせる。同じ釜の飯を食べたくても食べられない立場から、「同じ釜の飯を食べないと本当の人間関係を築けない」と思い込んでいる(思い込まされている)われわれの、実のところ本当に相手と向かい合うことを体良く省略し、ついてこられない人はあっさり排除する欺瞞を見ぬいてくるのだ。
ともに同じものを食べる「共食」を否定するのではない。が、そこにビルトインされている
「同じものを食べれば誰とでも仲良くなれると言い切る傲慢さ。無神経さ。そうでない人は排除するその暴力性」に気づくほうが、むしろ本当の「共食」なのかもしれないのだ。無意識に受け入れている「共食という同調圧力」に振り回されないために。
先日こんなことがあった。
うちにはよく娘の友人たちが遊びに来る。そんな時にはたくさん料理をしてもてなす。若い人たちと一緒にご飯を食べるのは私自身が楽しいからだ。
「さあ、食べて!これも食べて!もう一つ食べて!もう一口どう?」
ある日娘にぴしゃりと言われた。「ママ、それ食べハラだから。」
曰く、みんな自分のお腹と相談して食べたいものを食べられる分食べている。でもママから「もっと食べて」と言われたら、みんな断れないよ。みんな楽しんで喜んで食べてるから、それ以上何も言わなくて大丈夫です、とのことだった。
本書を読んでいて、娘のいうことがよくわかった気がした。たしかに。これがアルコールだったらそんなことはしないのに、食事なら、なんで「お勧めしていい」と思ったんだろうか私は。
出すこと。出すこと。ここにもまた、暴力性が潜んでいる。支配の構造が潜んでいる。
下痢を経験したことのない人はいないだろう。が、重度の潰瘍性大腸炎の下痢は想像をはるかに超えるものだ。なのに、我々はなまじ下痢の経験があるがゆえに、その厳しさへの想像力を欠く。下痢くらい、と。
その厳しい実態をつぶさに語りつつ、我々人間の社会が「出す」ということに貼り付けた「恥」の概念が、どのように「支配」の力へと転換されるかを考察している。スムーズに、苦もなく「出す」ことが出来るということから疎外された孤独の深さについても。
いずれにしても本書は、単に「難病患者の苦労話」ではない。当事者として丁寧に事実を積み上げてこそ見えてきた、私たちの社会のあり方への、大事な視点の提示である。
私自身、いままで無自覚に放ってきた言葉の数々について、一旦、立ち止まって考えざるをえないなと感じている。
病は気からよ!元気出しましょう!
病気と闘うのではなく、うまく付き合いましょう!
好き嫌いなくなんでも食べましょう!
同じものを食べれば分かり合えます!
家族で食卓を囲みましょう!
苦しいのはあなただけではありません!
分け合えば喜びは倍になり悲しみは半分になりますよ!
「明日は我が身」と思って思いやりを!
諦めずに頑張れば、夢は叶う!
ああ。特に疑問も持たずにいたこれらが。揺さぶられるのだ。
そして一番揺さぶられた一言は。
世の中には、「想像できる」と思っている人がいるのだ。
あまりにも想像力の欠けた近頃の社会である。例えば「病気は自己責任」とか「いつまで生きるつもりなのかねえ」とか。それに対して「想像力を働かせろ」という反論は、ある。が、「想像しようという努力」と。「想像できるという傲慢」とは。これもまた紙一重。
いやはや。本書ほど自省を迫ってくる一冊はないのである。