本書は、マルクス・ガブリエル(ボン大学教授)と中島隆博(東京大学東洋文化研究所教授)という、ドイツと日本を代表する哲学の泰斗が、これまでとは全く異なる視点で哲学のあり方を論じた新しい啓蒙書である。
これは、世にありがちな哲学の解説書でもなければ、哲学者が自分のべき論を世に訴える思想書でもない。本書の何が秀逸なのかと言うと、哲学は何のために存在するのか、哲学が果たすべき役割とは何なのか、哲学は世の中にどのように貢献出来るのか、哲学者は実社会に対して影響力のある企業とどう協働出来るのかという視点をしっかりと持って議論をしていることである。
世界的なベストセラーになった『なぜ世界は存在しないのか』で語られた新実在論(新実存主義)とは何なのか、なぜ「世界は存在しない」と言うのかを理解することにばかり気を取られて、ガブリエルが本当に何をしようとしているのかについては理解が及んでいなかった。また、ガブリエルはテレビやマスコミへの出演が多く、世間が「哲学界の若きロックスター」などともてはやすので、少々色眼鏡で見ていたようにも思う。
本書を読んで理解したガブリエルは、先ず、全てをひとつの価値観で絡めとろうとする全体主義を徹底的に否定している。これは勿論、75年前のナチスドイツの反省の上に立ってのことだが、それはドイツ人としてというより、地球規模で進んでいる「現代の全体主義」を危惧してのことである。
ガブリエルの言う現代の全体主義とは、ヒットラーのような一人の独裁者が主導するファシズム(全体主義)のように、はっきりと目に見えるものだけではない。トランプ大統領は勿論のこと、プーチン大統領も習近平国家主席も、ある意味でそれぞれ激烈な競争を勝ち抜いて、民主的なプロセスを経て一国のリーダーにのし上がったのであり、巷で言われるような「独裁者」ではないとガブリエルは言う。
そうではなく、今、世界中で人知れず進んでいる、先導する者がいないにも関わらず、皆がひとつのものに自ら従ってしまうGAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)のようなビッグ・テックによる支配、或いは、科学哲学者のダニエル・デネット(『解明される宗教:進化論的アプローチ』 )や進化生物学者のリチャード・ドーキンス(『神は妄想である:宗教との決別』 )のように、科学が唯一絶対的に正しいという価値観に縛られた科学至上主義が、現代の全体主義なのだと言う。
ガブリエルはこれを、「一なる全体に全てを包含しようとする諸概念(世界、存在、科学主義、資本主義等々)」と言っている。つまり、人々がひとつの物差しでしか世界を見なくなることを、全体主義と言っているのである。そうした意味で、西洋社会に拭いがたく埋め込まれた西洋中心主義やキリスト教中心主義というものも否定している。
ガブリエルは常々ハイデガーを厳しく批判しているが、本書の中でも、徹底した反ユダヤ主義者で、筋金入りのナチだと糾弾している。今、『ハイデガー全集』の出版で徐々に明らかになって来ているハイデガーの手帳、いわゆる「黒ノート」の内容について、本書でも詳しく説明されているが、確かにその内容は衝撃的であり、ヨーロッパにおける足元のネオナチの台頭を考えるにつけ、この問題はまだ終わっていないと痛感せざるを得ない。
新型コロナウイルスへの各国の対応に見られるように、ガブリエルは、今、民主主義は「上から」の力によって攻撃されている訳ではなく、民主主義を破壊しているのは我々自身なのだと言う。そして、どういう価値観にせよ、我々は一元論的な仕組みが上手くいかないことを既によく分っているはずだとして、根本的な「多元性」と「複数性」を提唱している。
ガブリエルに言わせれば、全ての事柄は何らかの文脈の中に存在しており、科学的に存在が証明されるもの(ガブリエルは科学至上主義を否定するが科学自体は重要視している)、人間の意識(ガブリエルは意識についてのジュリオ・トノーニの「意識の統合情報理論」を支持している)、更には、「一角獣」のような人間の想像の産物さえも存在すると言う。これがガブリエルの言う新実在論なのである。
勿論、ガブリエルは、あらゆる存在があり得るからといって、あらゆるものは相対的に過ぎず、そもそも物事の本質というようなものは存在しないというポストモダン的な相対主義については強く否定している。それでは単なるアパシー(無気力、無関心)だからだ。
ガブリエルが何をしようとしているかと言えば、世界中のコミュニケーションの非対称性を無くし、中立性の地平線を広げて、対話によって「普遍性」が生み出される可能性を準備する役割を哲学に担わせようとしているのである。
競争に勝つとか負けるとかでも、権威の有無でも、逆に無関心でもない、カント的な「道徳」或いはもっと中立的な言い方をすれば「倫理」の広がりを、実際に力を持っている企業や政治を巻き込む形で実現しようとしているのである。これが、ガブリエルの言う「新しい啓蒙」である。
古典的な左派の哲学者は、頭から企業を悪だと決めつけているが、ガブリエルは、自らの目指すところを実現するためには、現実的な力を持つ企業の協力が必要だと言っている。ビジネスの世界にも啓蒙的な人々がいる以上、哲学はそうした企業人とチームを組んで、世界をより良い場所にすることができるはずだというのである。
ガブリエルと同様に、中島もアカデミックな狭い世界に閉じこもることなく、今一度、全体主義、資本主義、科学技術が作り上げている巨大なうねりの本質を理解しようとしている。「地球規模での生態学的な破局」「民主主義を破壊する新たな強制収容所」「グローバルな規模での第二のヒトラーの登場」など、現代には破局的なシナリオが幾つも用意されており、今、多くの人々が、何らかの形での世界或いは自己の深い変容が必要だと感じているのは間違いない。
こうした中で、中島は、北京大学を始めとする各国大学との共同研究教育プロジェクトである東京大学東アジア藝文書院、立命館大学稲盛経営哲学研究センターにおける「人の資本主義研究プロジェクト」、世界哲学の構築プロジェクト(『世界哲学史』)などを通じて、対話を通じた地平線の拡大に尽力している。
ガブリエルと中島は、現代哲学がたどり着いた過度な相対主義が、普遍性を退けることで却って特殊でしかない現状を肯定するというパラドックスを前にして、いかにしてもう一度「普遍」への問い方を立てていくのかという問題意識で一致している。そして、その根本にあるのは、多様性を排除する単一の価値観の否定と人間尊重の思想である。
もし議論の前提が普遍的に受け入れられるものでなく、コミュニケーションのモデルが非対称的であれば、その哲学は「悪」へと向かってしまう。どちらが優れているか、劣っているかということではなく、どれも思考であり、考えることの本質は権力関係に立つことではない。グローバルな世界で哲学が果たす役割は、権力関係を中立化することであり、「倫理」というのは中立的なものに向かうのである。
例えて言うなら、ダンスには様々な踊り方があり、そこに何らかの共通点があるはずだが、それを見つける唯一の方法は、一緒に踊ることなのである。二つの異なるスタイルのダンスを一緒に踊れば、そこに新たな複合が生まれるが、それが実際にどのようなものになるかは、一緒に踊ってみるまで分からないのである。
先日、野中郁次郎と竹内弘高の世界的ベストセラー『知識創造企業』 の続編である『ワイズ・カンパニー』 が発売された。そこでは、古代ギリシアのアリストテレスの「フロネシス」(実践知)という概念を用いて、知識創造から知識実践へと理論を拡張している。それ以外にも、プラトン、フッサール、ハイデッガー、デューイ、ポランニー、西田幾多郎といった哲学者や思想家の考えを咀嚼して、形而上学と経営学の橋渡しをすることで、企業サイドから哲学にアプローチしようと努めている。
これは、ガブリエルと中島が、哲学サイドから企業にアプローチしようとする動きと軌を一にするものである。もし仮に両者の動きを融合すれことができれば、世界は大きく変わるのではないだろうか。
勿論、現実の企業社会を熟知している身としては、必ずしも楽観的にはなり切れないが、とにかく動き始めなければ何も始まらないということだけは間違いない。今後ともこうした哲学界の新しい動きに注目して行きたいと思う。