2006年にちくまプリマー新書で出た本が再刊された。Kindleでも読めるし、新刊書店で簡単に手に入るようになったのは喜ばしい。感染症を解説した本はいろいろあるが、本書はちょっと特殊だ。メアリーを我が身に置き換えると震え上がるほど恐ろしい。
約100年前のニューヨークで、腸チフスの無症候性キャリアであった女性が、離島に合計で25年余り隔離された事実を追った物語である。彼女は「チフスのメアリー」と呼ばれ、亡くなったのち現在まで「毒婦」「無垢の殺人者」の意味でその名は残った。
1907年、北アイルランドからの移民で、賄い婦として働いていたメアリー・マローンの働く先々で、腸チフスが発生していることを、衛生工学の専門家、ジョージ・ソーパーが突き止める。メアリーは当時37歳で独身。料理が上手で子供の面倒見もよく非常に評判のいい女性だった。だがこの10年の間の職業安定所の記録を見ると、8つの家族で22人の腸チフス患者が出ていたのだ。
半ば拉致されるように拘束され、感染症専門病院で検査を行うと、便からかなり高濃度の腸チフス菌が検出された。彼女は保菌しても症状の出ない健康保菌者「無症候性キャリア」であったのだ。賄い婦として食事を提供する仕事だったため、多くの患者を出す結果になった。
メアリーの見た目は普通の健康な女性であり、外見から保菌者であることは全くわからない。本人さえ知らない。しかしこのままにしておけない当局は、ニューヨークを大きく挟むように縦断するイースト・リヴァーの中に浮かぶノース・ブラザー島の、天然痘や結核患者の隔離を目的としたリヴァーサイド病院に3年近く入院させる。
この間、健康保菌者の観察と菌を排除するための薬剤試験が行われたが、結果は思わしくなく、その後メアリーは裁判を起こし退院している。その際、賄い婦の仕事ではなく、食べ物と関係ない洗濯などの仕事をすること、という誓約書に署名していた。
だがそれから5年後、偽名で賄い婦をしていたメアリーは、また腸チフス患者を出してしまい再び拘束され、そのまま死ぬまで、リヴァー・サイド病院に隔離されてしまった。
新型コロナ肺炎が大騒ぎになってはじめて、私たちはクラスターやオーバーシュートなど感染症の専門用語を知った。特に、病原体に感染したホストのうち、通常考えられる以上の二次感染例を引き起こすスーパー・スプレッダーという存在は恐ろしい。その上、自分に症状が出ず、知らないうちに誰かを病気にしている感染源になっているとしたら、生きているのが罪だと思うだろう。
ちくまプリマー新書は学生対象に書かれたシリーズであるため、簡潔で非常にわかりやすく書かれている。本書はジュディス・リーヴィット『チフスのメアリー』(未翻訳)を元本としているそうだ。感染症対策は何が正解なのか、もう少し時間が経たないとわからないだろう。だが、このメアリーのような存在は、私たちの周りに存在しているだけでなく私たち自身がそうなのかもしれない、と思って生きていかねばならないようだ。
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感染症の名著が、新型コロナウイルス関係を増補されて再刊された。日本人に感染者が少なく、かつ死亡者が少ない理由かもしれないひとつを、井上先生は証明されている。かなり衝撃的な事実だった。