きっかけはいつも不意に訪れる。人生とはどうやらそういうものらしい。
丈夫な体だけが取り柄だったのに、仕事中に倒れ、人生初の入院生活を経験した。精魂傾けていた仕事を放り出し、おとなしくベッドで横になっているなんて想像すらしなかったし、その後、医師に命じられたジム通いで、まさか筋肉をいじめるマゾヒスティックな喜びに目覚めようとは思わなかった。
人生はいつだって偶然のきっかけに左右される。予期せぬタイミングで、思いもよらなかった人生の扉が開かれる。
本書は「宮沢賢治」についての画期的な発見が記された傑作ノンフィクションである。もしも今、あなたがこの本を偶然手にしたのであれば、解説を読むのなんて後回しにして、このまま真っ直ぐレジに向かうことをオススメする。間違いなく本書は鮮烈な読書体験を与えてくれるだろう。宮沢賢治という文学史上の巨人が、まるで近しい友人のように感じられ、謎めいた作品の数々に秘められた賢治の想いを知ることができる。この本を手にしたあなたは、幸運だ。
著者に本書を書くきっかけをもたらしたのも、新聞社から突然かかってきた電話だった。執筆を依頼された読書面のコラムで宮沢賢治全集に触れたところ、新しい全集が出ていることを担当記者が知らせてくれたのだ。さっそく入手し、これまでちゃんと読んだことのなかった文語詩の巻を開くと、異様な言葉で始まる詩と出合った。
《猥れて嘲笑めるはた寒き》
「猥褻」の「猥」が使われているが、「猥れて」をどう読むのかわからない。他にも「嘲笑」「凶」「秘呪」などの字句が、ただならぬ雰囲気を醸し出していた。本書はこの異様な四行詩の解読から始まる。スリリングな謎解きにページを捲る手が止まらない。
著者はテレビの草創期から数多くのドラマやドキュメンタリーを手がけてきた名プロデューサーだ。本書のひとつ目の読みどころは、著者の徹底した解読ぶりにある。謎の詩を下書稿から一字一句舐めるようにチェックし、この詩が書かれた日はいつか、その日の賢治の行動はどうだったか、その時、賢治はどんな場所に立ち、その目にはどんな光景が映っていたか、しつこく調べていく。
やがて著者は、謎の文語詩と同じ日の出来事を詠んだと思しき「マサニエロ」という口語詩と出合うのだが、この詩の解読に至っては、賢治が佇んでいた城あとにどんな風が吹いていたかまで調べている。スゴ腕のプロデューサーというのは、ここまで徹底した取材をするのかとため息が出る。同じ放送業界に身を置く者としては、もしこの人が上司だったら……と想像しただけで逃げ出したくなるが、著者の妥協を許さぬ調査のおかげで、読者はあたかもその場所に立ち会っているかのような臨場感で賢治の詩を読むことができる。徹底したディテールの再現によって、私たちは賢治の頰を撫でていた風すらも感じることができるのだ。
ノンフィクションは事実をベースにする、と言うと当たり前のようだが、ここまでノンフィクションらしいノンフィクションも珍しい。事実を細部に至るまでとことん突き詰めているからこそ、リアルな存在感をもって賢治が私たちの前に立ち現れる。「まるで生きているかのような賢治」。これが本書のふたつ目の読みどころである。
謎の詩を解読するうちに、著者は「妹の恋」が鍵になっていることに気づく。賢治とは二歳違いの妹とし子は、花巻高等女学校きっての秀才だったが、音楽教師に恋をし、このことが地元紙にスキャンダルとして報じられてしまう。ところが、妹が失意の底にある時、賢治は自らの恋に夢中で、このことを知らなかった。
賢治が恋い焦がれた相手は、同性だった。著者はこの叶わなかった恋をつぶさに検証していく。思いを寄せる人からの手紙に胸ときめかせる賢治、会いたいとしつこく迫る賢治、同性を好きになってしまった自分は「けだもの」だと自嘲する賢治……。恋する賢治はとても生々しい。純粋で誠実だが、あまりに性急で不器用だ。賢治を聖人君子のように崇拝するファンはショックかもしれないが、ここには紛れもない生身の賢治がいる。本書を読みながらずっと、賢治の体温や息遣いを身近に感じているかのようだった。
だが、著者の描く賢治があまりにリアルであるがゆえに、賢治の悲しみもまた痛切に胸に迫ってくる。大正10年(1921)9月、とし子が喀血した。翌年になっても病はよくならず、病室で過ごすようになる。この時賢治は初めて、とし子が内面を書き綴ったノートを読み、最愛の妹が抱えていた苦しみを知った。日本文学史上屈指の名篇「永訣の朝」は、ほとんど食欲を失った妹が最後に口にしたいと望んだ霙(花巻弁で「あめゆじゅ=雨雪」)を、賢治が取ってくる様子を詠った詩である。「あめゆじゆとてちてけんじや」(雨雪を取ってきてちょうだい)というとし子の言葉が、幻聴のように繰り返されるのが悲しい。
この詩の中で賢治は、「おらおらでしとりえぐも」(私は私で独り行きます)というとし子が発した方言を、なぜかローマ字で記している。なぜわざわざローマ字で書いたのか。著者は、賢治の心の奥にまで分け入って、その時の心情を推し測る。ただ一人賢治だけが、とし子の孤独と悲しみとを感知していたという事実に、胸が痛くなる。
大正11年(1922)11月27日夜、とし子は24歳の若さでこの世を去った。賢治の声すらも出ない慟哭を、私たちはその傍で聞くことになる。愛する妹の死が、この繊細極まりない青年の心にどれだけ深い傷を負わせたか、身を切るような痛みとともにあなたにも伝わってくるだろう。
とし子の死後、賢治が案じていたのは、妹の魂の行方である。その関心は常に創作の根底にあった。そしてその先に、名作『銀河鉄道の夜』が生まれるのだ。本書のクライマックスにして最大の読みどころは、この名作に秘められた謎の解明である。
『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニには、カムパネルラという同伴者がいる。長い間、このカムパネルラのモデルは妹とし子であるとされてきた。とし子が亡くなった後の樺太への旅を歌った「青森挽歌」に銀河を走る夜汽車のイメージが出てくることなど、いくつかの傍証からそう考えられてきたのだが、著者の精緻な読み解きによって、この名作は私たちにまったく違う顔を見せる。
『銀河鉄道の夜』は謎の多い作品だ。たとえば物語に出てくる「ケンタウル祭」とは何か、賢治は一切、説明していない。あるいはジョバンニの持っている切符に印刷されている「おかしな十ばかりの字」とは何か、なぜ天の川に工兵大隊が登場するのか……。こうした疑問のひとつひとつを、例によって著者は粘り強く解き明かしていく。
圧巻は、賢治が旅をした厳冬の陸中海岸の夜空を再現するくだりである。『銀河鉄道の夜』の着想にはタイタニック号の沈没事故が影響しているのだが、賢治は冬の海を体感するために、大正14年(1925)1月5日、陸中海岸への旅に出た。厳寒の雪道を徹夜で歩くルートである。著者はコンピュータグラフィックスの研究者の協力を得て、この日の夕方から明け方にかけて、陸中海岸の上空にどんな星々が見えていたかを検証する。こうして再現された「陸中海岸のその夜の空の出来事」には思わず息を呑んだ。白い息を吐きながら黙々と雪道を歩く賢治。その頭上に広がる満天の星空。夜空を走る銀河鉄道が確かに見えたような気がした。
長い旅の末に著者は、『銀河鉄道の夜』の中に新しい賢治を見出す。それは文学史上の新発見と言っていい、まったく新しい賢治像である。それがどのようなものかここでは書かないでおこう。ミステリー小説の種明かしをするようなものだからだ。ぜひ自分の目で確かめてほしい。
本書は文学作品の読み方の素晴らしいお手本でもある。賢治の作品には、わかりにくい表現や意味不明な言葉が、唐突に出てくることがよくある。最初の作品『春と修羅』が出版された時も、賢治は詩集ではなく「心象スケッチ」と呼ぶことにこだわった。どうやら「自分だけがわかっていればそれでいい」ということらしい。これは現代の私たちが考える「自己表現」とはまったく違うものだ。私たちの言う「自己表現」は、他者の評価を前提としている。小説でもドラマでも、最近はとかく「わかりやすい」作品ばかり求められるが、これも受け手の評価を前提とした発想だ。だが、賢治は違う。
人生を襲った理不尽な出来事について、なぜそれが起きたのか、その意味するところは何かを苦しみながら考え抜き、創作物へと昇華させた。賢治が生み出した一連の作品は、まず何よりも、自分のために書かれたものなのかもしれない。にもかかわらず、それが独りよがりに陥っていないのは、賢治が己を極限まで突き詰めているからではないか。個を突き詰めた果てに、普遍性が現れる。著者はこの一見わかりにくい、きわめてパーソナルな賢治の表現をそのままに受け止め、なぜそのように書かざるを得なかったのか、その時々の賢治が置かれていた状況や気持ちを理解しながら解き明かしていく。本書は文学作品の深い味わい方の優れた実践でもある。
単行本の刊行当初から本書は評判となり、第15回(平成29年)の蓮如賞も受賞した。「聖なる人間の背後には常に深い闇があることを明らかにした画期的作品」と当時存命だった梅原猛は評したが、これも著者の賢治作品の深い読み込みがあってこそ、だろう。
最後に、大事なことを言い忘れていた。この小文の冒頭で、きっかけはいつも不意に訪れると書いた。人生は計画通りには進まない。良きにつけ悪しきにつけ、人生に想定外の出来事はつきものだ。だが一方で、それがどんな出来事であろうと、後から振り返ると、不思議とその経験には意味があったことに気づくのだ。まるでその事態を乗り越えることが、最初から予定されていたかのように思える。だからあなたがこの本を手に取ったことにも、きっと何か意味があるはずだ。本書があなたに何をもたらすかはわからない。だが、あなたがまだ知らない新しい賢治と出会えることだけは、確かだ。繰り返そう。この本を手にしたあなたは、幸運である。
(令和2年1月、文化放送プロデューサー)