物心がつく頃になると、彼が世界のあちらこちらに散在する家族と電話で話すときに口にする様々な言語の響きを聴きながら、「一体この人にはどんな世界が見えているのだろう」と不思議に感じた
著者は、遺伝学上はアジア諸国の混血でありながら、東京でフランス国籍者として生まれた出自を持つ。さらに、子ども時代の言語獲得、濁音との共生、高校時代はパリでフランス語を、大学在学中はアメリカで英語を、仕事をはじめてからは東京で日本語を、ぬか床との情報技術を通じた対話、同じく複雑な出自となった娘とのやりとり、表現、言語、翻訳の当事者として生き、経験そのものに好奇心を向け、研究してきた。その学習の軌跡とその過程で思考したことを書き連ねた本である。
フランス語系幼稚園に通うのに、家でフランス語を話さない娘とのやりとりは、本書の中でも忘れがたいエピソードだ。ある日、帰宅しながら思いついたのは、日本語を話せないふりをすることだった。即興演劇さながら、家で試してみるが、娘は簡単に信じない。その追及をかわしながら、フランス語で答え続けること一週間、父娘の会話はもっぱらフランス語になった。娘の友達の間では「頭をぶつけて日本語を忘れたお父さん」として有名になったそうな。
この話を聞いて思い出したのは、岡田美智男教授の弱いロボットのことだ。ゴミ箱を持っていながら自分では拾えないロボットは、その姿を見た人間が手助けをし、結果としてゴミを捨てる目的を果たす。同じように、娘と対話したいけれど日本語が話せない父親を擬似的に演じ、日本語という能力を失い弱くなることで、娘のフランス語を引き出したのだ。
起業して最初に発表した作品がタイプトレースだ。未だ世に出ていない、おそらくこれからもプロダクトとしては世に出ることのない幻の作品である。
タイプトレースは、文章の書き手の軌跡を記録し、文字のサイズによって、執筆の時間を記録し、再生できるメディアアート作品で、文章の背後に隠された執筆の思考の痕跡とリズムを思い起こさせる。
言い換えるなら、メッセンジャーアプリを通じたやり取りで、相手がタイピングしている最中に表記される「・・・」。その表記は文章を書き直し、削除している相手のタイピングの軌跡を想像させ、どんなメッセージがくるのか、期待と不安を膨らませる。
タイプトレースは、「・・・」も、最終的に送付されてくるメッセージの前にあった打ち直しも含め、そのすべてが映像として可視化される。放っておけば、すぐに忘れてしまう間合いや打ち直しをとらえ、映像化する。
原稿用紙ではなく、ワープロソフトで文章を書くことが当たり前で、文章作成の間に痕跡が残ることはない。それを残すという発想への驚き。そして、実際の作品映像を見たときに、文章が躍動し、停滞する、その余白にある感情を想像しながら、書き手の執筆を体験として共有できる面白さがある。
2019年には、あいちトリエンナーレに出展された、テーマは遺言である。遺言は自分の死後にある想像不能な未来に言葉を投じる、自分は決して応答を受け取ることができない、特殊なやりとりである。それを10分という限られた時間で綴る。
出展を依頼された際には、従来の小説家がタイピングしている作品をお願いされていたが、自分がまず娘に宛ててどんな言葉を綴るのかが気になりはじめたことで、テーマが決まった。どこまでも主体的で自分ごとである。作品はインターネット上の不特定多数のユーザーが書いた。そのため、現在でもWeb上でタイプトレースを触ることができるようになった。作品制作が目的のため、いつクローズされるかはわからないので、興味をお持ちならば、ぜひ触ってみてほしい。
(2008年に発表された当時からずっと使ってみたいと思っていたので、実際に試してみたが、執筆後の気持ちの揺らぎは想定外だった)
ここまで、著者の実体験を中心に紹介してきたが、それぞれとシンクロするように論文や研究が引用される。実体験ひとつ一つのためにブレンドされたかのように論文と経験が絡みつき、深みと知的刺激を添えるスパイスのような位置づけとなっている。具体と抽象を往還する、ゆるい規則性のあるパターンは読み心地がよく、聞きなれない理論や人名もスーッと頭に入る。
新たな地平を開拓する学術書でもなく、悩みを解消する自己啓発書でもなく、武器を与えるビジネス書でもない。本屋のどこに並ぶのだろうか。しかし、誰に贈りたい本かはすぐに思い当たる。子どもが生まれ数年経過し、言葉を紡ぐ時間もなく、必死に日々をやりくりする共働き世帯に届けたい。放っておいて、こぼれ落ちてしまった子育ての驚き、喜び、哀しみに言葉が与えられるだろう。
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