この本の発売時に、まさか世の中がパンデミックの恐怖にさらされているとは、製作者は誰も思ってなかっただろう。しかし、感染症の歴史のアウトラインを知りたいという人にはぴったり。かなり重いので持ち運びはできないけど。
日本は海に囲まれて、いわば離れ小島のような存在だから、かつて歴史上で世界的な流行をした伝染病も、外からの災いであるという受け止め方をしていた。毎年騒がれている鳥インフルエンザにしても、今回の新型インフルエンザにしても、あるいはエイズ、ペスト、コレラもそうであった。
しかし、ヨーロッパはそうはいかない。中央アジア奥地にしてもアフリカにしても、中国であってさえ陸路で伝染が広まってくる。ひたひたと迫るその恐怖は、人々をパニックに陥れた。
私が伝染病についての海外医療ノンフィクションを好んで読むのは、病気のルーツや伝播の経路、それぞれの国の対応の違いなど物語のスケールの大きさに圧倒されるからだ。陸続きに広がっていく伝染病の恐怖や、原因不明で死んでいく人々の姿を活写した作品の迫力は小説に勝るとも劣らない。
また、外国で起こった出来事が日本の近い将来を予想させることも大いにある。エイズやSARS,もちろんインフルエンザの対応など日本でも問題になりうることである。「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、その作品のなかに何かの啓示を読み取ることも出来るのだ。
新型インフルエンザの恐怖が続いている。夏の終わりごろから流行りだし、小中学校では学級閉鎖になっているところが多いそうだ。ところで、6年前のこのことを覚えているだろうか。世界中の経済に恐慌を起こし、飛行機に乗るのも命がけで、日本人ぐらいしかかけなかったマスクがアジアの町中で売られたあの事件、あの病気。
本書は2002年の末から2003年の春にかけての約半年の間に死者800人余り、感染者は8000人以上に上った伝染病SARSの発生から収束までを追いかけたドキュメントである。
著者は当時タイムの香港版「アジア・タイム」の編集長、カール・タロウ・グリーンフェルド。香港を拠点に、本土にまで入国し現状をつぶさに見てきたジャーナリストだ。
始まりは広東省の深圳に密集する野性動物を食べさせる料理屋の一角だった。その料理店で働く出稼ぎ労働者の一人が、風邪に似た奇妙な病気にかかる。症状はみるみる酷くなり、その数日後、この患者が搬入された病院では、治療に関わった関係者ほとんどが同じ病気に院内感染していることが発覚する。これがSARSであった。
本書の優れているところは、患者の病状、治療者の苦闘、病理学者の功名心、隠蔽する中国政府、真実を付き止めようとするWHOとそれぞれの立場からの目線で書き分け、読み手に混乱を起こさせず、きちんと交通整理がされていることだ。
発生から日を追って、患者数や飛び火した場所、その対策まできちんと取材しながら大局に立たず、あくまで登場する人物それぞれがこの病気にどう立ち向かったかが描かれている。文字通りページを繰る手が止められない傑作である。
原因不明の伝染病は恐ろしい。まして、死までの苦しみが凄まじければ凄まじいほど恐怖の度合いは高くなる。近年、一番その恐怖を植えつけられたのは、アフリカで発生した「エボラ出血熱」ではないだろうか。脳、内臓を溶かし、目、鼻、口など体中の穴から出血し、致死率はなんと9割。この殺人ウィルスがエボラであった。一般に知られたのは1995年。ザイールで200人以上の人が死んだと報道されたことによる。
しかしそれに先駆けて94年に『ホット・ゾーン』が発表されていた。著者はリチャード・プレストンというジャーナリスト。本書は89年、アメリカの首都ワシントン近郊の霊長類検疫所で突如出現したエボラウィルスをどのように封じ込めたかのドキュメントである。
感染が疑われるサルたちに向かうバイオハザード・スワット・チームの恐怖。当時は、空気感染する可能性すら囁かれており、もし人間に感染したら、ワシントンは壊滅してしまうかもしれない。
著者はこのあとウィルスを生物兵器として利用した『コブラの眼』というスリラー・サスペンスを書いている。こちらも合わせて読んで欲しい。
様々な伝染病を総括し、その恐怖を描いて余りある作品といえば『カミング・プレイグ』が一番かもしれない。二段組900ページを越す大著で読みやすいとはいえないが、「感染症の辞典」ともいうべき内容は他の追随を許さない。
著者のローリー・ギャレットはアメリカの新聞、ニューズデイの科学ジャーナリストである。エイズを中心に感染症に関する多くの優れた記事を書いてきた。本書はそれをまとめたものである。
取り上げた感染症はボリビア出血熱、マールブルグ、ラッサ熱、エボラ、豚インフルエンザ、エイズ、薬物耐性のウィルスや寄生虫などで、病原菌そのものと現代の環境との関連性の記述など、大変参考になるものである。各章の最後に付けられた膨大な参考文献の細かい文字を追っていると、人類と病原菌との果てしない戦いを思い、呆然とするばかりだ。
やはり一番恐れられているのは新型インフルエンザであることは間違いない。本書は1918年にパンデミックをおこしたスペイン風邪、いわゆるインフルエンザの病原菌を、永久凍土に埋葬された遺体の肺から取り出そうという計画の全容を著したものである。
1998年、英国国立医学研究所はでは、新型インフルエンザの来襲に備え、スペイン風邪と呼ばれたかつての大流行の再調査に入った。ノルウェーのスピッツベルゲン島で死んだ7人の青年を掘り起こし、その体内から何かを掴めないかという計画であった。その顛末は詳述しないが、この本が発表された1999年と今では、治療薬に格段の差がある。予防の知識が啓蒙され、ワクチン接種もめずらしいことではなくなった。タミフルやリレンザの開発によって、防げる範囲が大きく広がった。しかしその薬に対する耐性菌も発見され、まさにいたちごっこが続いている。克服までにはまだ相当の時間がかかりそうだ。
伝染病の忌まわしい歴史を振り返ってみると、二大主役としてペストとコレラが思い浮かぶ。ジョン・ケリー『黒死病 ペストの中世史』は14世紀半ばに内陸アジアのどこかで発生したこの伝染病について、時系列を追って詳細に調査をした迫真のノンフィクションである。
この伝染病、一方はガレー船によってヨーロッパへ運ばれ、一方は陸路で中国に広がったといわれている。未曾有の恐怖に陥った都市の反応と人々の行動や心情が細かく描かれ、非常に興味深い。著者はアメリカの科学ジャーナリストだが、現代の感染症を調べる前に、過去の大流行を調べ始め、ペストに行き当たったと巻頭で述べている。
各地に残された公式な記録や書簡、個人日記なども渉猟し、これらからうかがえる人々の恐怖は現代の我々と全く変わることがない。黒死病の流行によって起こった労働力の不足など様々な事態は、身分の逆転を起こし、貴族達の権威は地に落ちた。終盤に描かれたこの部分こそ、本書の読みどころであると思う。
こちらはコレラ。19世紀のロンドンで猛威を振るったこの伝染病について、詳細に調査を行った作品である。ジョン・スノウとは「疫学の父」とよばれるイギリス人麻酔医で、彼の人物史にもなっている。
19世紀初頭、ガンジス川流域が発生源とみられるコレラは、それから10年余りでロンドンに到達する。その伝播の経緯は先のペストと同じように克明に調べられている。
最初は空気によって感染すると信じられていたコレラだが、ジョン・スノウの調査によって、必ずしも隣人同士で病気が広がるわけではないということが発見される。そのことより経口感染が疑われ、実地調査と予防活動によって井戸が原因となっていることを解き明かす。この過程はまさに犯人を追うミステリーのような面白さである。著者のサンドラ・ヘンペルは健康問題などを専門にするイギリス人ジャーナリスト。現代の医学の基礎を築いた偉人の物語である。
2009年の豚インフルエンザ騒動を覚えているだろうか。当時、WHOはとうとうフェーズ6、パンデミックを宣言した。当初心配されていた鳥インフルエンザと違い弱毒性で、適切な治療がなされれば命に関わるものではないというのが救いだった。
小林照幸『検疫官』(角川書店)はウィルスなどを空港や港などまさに水際で食い止める検疫官に取材し、その仕事内容や役割を克明に綴った大変興味深い本である。
日本には検疫所が13箇所ある。本書の主人公は岩崎恵美子。03年発表当時は仙台検疫所長で、現在は仙台市副市長である。耳鼻科医から検疫官になった経緯も面白いが、50歳を過ぎて熱帯医学を学び、エボラ出血熱の現場でその実態も視察している。
また、2002年のサッカーのワールドカップでは宮城スタジアムでの試合のバックヤードで、考えうる限りの生物・化学テロへの対策の総指揮をとっていたのだ。今回のダイヤモンド・プリンセス号の一件で、検疫とは何か、どうなっているのか興味を持った人は多いだろう。もともと裏方に徹しており、事実、今回の流行で不眠不休の働きを強いられていることは間違いない。検疫官の仕事ぶりを知りたい人は読んでみてほしい。
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