動物とセックスをする人たち──そう聞けば、多くの人は激しい嫌悪感を覚えるだろう。しかし読み進めるにつれ、感情は目まぐるしく移り変わっていく。驚愕、好奇、悲哀、困惑、感嘆……。
本書は、ズーと呼ばれる動物性愛者たちの実像に迫った一冊だ。著者は、かつてパートナーからDV(ドメスティックバイオレンス)を受けていた過去を持つ人物。自らの身に降りかかった経験からセクシュアリティに悩みを抱え、その回復のプロセスの中で動物性愛者のことを知る。
次第に彼らの生き方に興味を持った著者は、ドイツにある世界唯一の動物性愛者による団体「ZETA」のメンバーたちからネットワークを広げ、取材を進めていく。
著者がまず目の当たりにしたのは、動物性愛者と呼ばれる人たちの複雑さであった。彼らのことを一言で動物性愛者とくくることには困難が伴う。それは人間のセックスにおいて、目的や楽しみ方が千差万別であるのと同様だ。
彼らが言うことには、自分が恋する相手は動物なら何でもいいわけではない。また性的対象となる動物の性別にも違いがあり、ゲイもレズビアンもバイセクシュアルも存在する。セックスでの立場を示す言葉もあって、受け身の場合はパッシブ・パート、その逆をアクティブ・パートという。
対象となる動物でとくに多いのは、犬と馬だ。彼らは自分の愛する特定の動物の個体を「パートナー」と呼び、人によっては「妻」や「夫」とさえ表現する。要は、そこにパーソナリティを見出すことが必要条件なのだ。
動物との性愛は、言葉のない世界だ。儀式化され、社会化された人間のセックスとはそこが大きく異なる。「犬が誘ってくるんだよ」、あるパッシブ・パートの男性は語った。犬が体にのしかかってきたら、あとはすべてを犬に任せれば、自然に行為が始まるそうだ。
それは一般的に獣姦(じゅうかん)と呼ばれるものとは違うし、動物同士のセックスとも(おそらく)違う。パートナーと種を越えて対等であるために、「しつけ」や「飼う」という感覚から離れ、性欲を含めた生をまるごと受け止める。そのときにパッシブ・パートの人間が感じるのは、支配者の立場から降りる喜びだ。
一方、アクティブ・パートはみな口が重い。それは「言葉による合意」が取れないことによる語りにくさと後ろめたさがあるためだ。また、ズーでありながら動物との性愛行為をしたことがない人たちも存在する。しかし彼らと深く語り合うことで、著者はさまざまな思考の制約から解き放たれていく。
そんな多様で複雑なズーの人々の営みが、著者が自分自身を取り戻すまでの過程の中に、丁寧に織り込まれている。そこで見えてくるのは、われわれが本能と信じてきたものが、まさに虚構にすぎないという可能性だ。本能とは環境、教育、信仰、心情、規範、言葉といった社会性を帯びた理性の1つの側面にすぎないのかもしれない。
いずれにしても嫌悪感は消えないかもしれない。しかし本書は、この著者にしか書けないテーマが、この著者にしか書けない言葉で書かれており、「常識」という壁を木っ端みじんにしてくれる。それを人は名著と呼ぶのだ。
※週刊東洋経済 2019年12月21日号