東京が生んだ奇跡、代官山『HILLSIDE TERRACE 1969-2019』
東京屈指の人気の街、代官山。おしゃれなイメージを持っている人も多いだろう。実はこの街は、丹念に手入れされ、長年の努力の積み重ねでできあがっている。重要文化財指定の和風建造物があり、街自体が建築の有名な賞を受賞した、と聞けばどうだろう。その歴史と成り立ちは、都会に生まれた奇跡かも――街の秘密をとじこめた一冊を、今回はご紹介したい。
本の監修者は「ヒルサイドテラス50周年記念実行委員会」。読み進めると、街ぐるみで、住む人、働く人、憧れた人、と縁のある人たちが、書き、撮影し、調べて、編集したものだとわかる。寄稿者は50人以上、関係者が総出の一冊なので、著者は誰かといえば、はっきりと明記されていないのだが、もはや代官山の街ということになるのかもしれない。
そもそも代官山の駅はといえば、東京と横浜を結ぶ東急東横線、渋谷からひとつめ、次の駅は中目黒である。エリアとしては渋谷からも恵比寿からも近い。駅は住宅街のなかにあり、店が後から周囲にできたような印象で、本体はこじんまりとしている。急行が止まり、日比谷線に接続する隣の中目黒の喧騒とは無縁だ。
さて、紹介する「代官山ヒルサイドテラス」は、この各停しか止まらない、改札を出るとアイスクリーム屋がある可愛い駅を出て、店や住宅の間を抜けて少し歩いた通りの先にある。ひとつの豪奢な建物が屹立して注目を集めるのではなく、旧山手通りに沿って、パブリックスぺースで間を保って長細く並ぶ建築群だ。複数の車線の広い道路に、当時の建築基準に従った低層階の建物が並んでおり、一度に大きなものが建てられたのではなく、6期でA~H棟、そしてヒルサイドウエストが1998年に加わり(6期と追加のヒルサイドウエストで7回に分けて)、建築物としては今の姿になった。
歴史は明治期、ヒルサイドテラスを運営する朝倉不動産の朝倉家のルーツにさかのぼる。
史料によれば朝倉家は、武田勝頼(信長と家康により、苛烈な最後を遂げる)の家臣の血筋だという説がはっきりしないようだが、江戸期の1720~30年には遅くとも渋谷に居住、その後朝倉米店としてこの土地で明治2(1869)年に開業、精米とコメの小売りで出た利益で土地を買い増して行った。その土地が現在のヒルサイドテラスの基盤になったそうだ。東京でも屈指の優良企業という記録もあり、当主が渋谷の町の議員になるなど、町の自治の一翼を担った時期は大賞デモクラシーの時期と重なっていた。
政府による市場統制の影響などもあり、昭和17(1942)年には廃業、戦後は食糧配給公団が借地をして精米を続けたそうだ。相前後して、昭和初期からは民間のアパート経営に乗り出し、一帯に1000を超す部屋を所有していたというから相当なものだ。戦争でアパートの9割が焼け、戦後は相続税の支払いに苦しめられたこともあり、世情からは逃れられない苦難があったようだが、1960年代に入り、不動産経営の一環で集合住宅を建てることになる。
そこで出会った、アメリカ帰りの気鋭の建築家、槇文彦に依頼し、1967年、最初の第1期が始まる。時代や住民の変化に合わせて、その後数年ごとに7回に分け30年を経て、旧山手通り沿いに、住宅のみならずカフェ、店舗、美容院、ついには文化活動のスペースまでもが、連なっていく。
槇文彦という1人の建築家が長い時間をかけて通り沿いに街並みを作ったこと(街づくりという意味ではいまも続いている)、そして施主の朝倉家率いる朝倉不動産が、別の主体に運営を委託するようなこともなく、終始直接運営に携わってきたこと。このふたつが、ヒルサイドテラスをユニークなものにした、最大のポイントだ。98年には事務所をついに代官山に移したという建築家と、ずっと親戚も含めて住み続けているという施主の幸せな出会いは、そのままバブル時代を乗り越えて今に至る。
ちなみに、2004年に国の重要文化財となった「旧朝倉家住宅」は、1919年に建てられ、1947年に相続税の支払いで売却されるまで、朝倉家の人々が実際に住んでいたという。国が売却することになり、運動がおこり、重要文化財指定となって保存・公開されている。見学もできるので、足を運んで往時をしのぶのも一興だ。
古墳時代からの始まり、江戸時代から渋谷と鎌倉の間の交通の要衝として栄え、渋谷の勃興とともに明治に入り人口が増えていく、この界隈の土地の歴史をも、本では振り返る。実は崖の上に建っており、名前の通りヒルサイドだという地形も自ずと飲み込める。
と、あらましを書くとそのようになるわけだが、本のページを繰っていておもしろいのは、今に至るまでの、人が触れ合う、自治や街づくりの家庭の紆余曲折と試行錯誤かもしれない。代官山に行くと、どこかよい「気」を感じるのだが、それは一朝一夕でできあがったものではないことに納得するのだ。
たとえば、テナントと大家は「バトル」しながらも工夫を重ねていき、結果レストランやカフェ、美容室は息の長い営業となるから信頼も増し、芸能人や文化人が足を運びはじめる。住居をオフィスにする走りでもあり、敏感なクリエイターたちが集い、いつしかコミュニティーができあがっていく。建築家やデザイナーの梁山泊となり、「SDレビュー」という建築家の登竜門とも言える公募もここで行われるようになった。
関わりを持ったそれぞれのテナント、通っていた作家や住人であるクリエーターの言葉が折々に挟まれていて、生の声がおもしろい。美空ひばりから、楽天の三木谷浩史社長(一時期オフィスがあったそうな)の名前まで、それはもう、綺羅星のごとし。最近の話題では、代官山にできた蔦屋書店の開店についても触れられている。さながら、「大家さんと僕たち」とでも呼びたいところ。
とはいえ、この本は、槇さんの冒頭の文章「6人の子供達」に尽きる。
ある家族がヒルサイドテラスという彼等の子供を50年にわたって育ててきたという比喩が一番適切にこのプロジェクトの今日のあり方を表現しているのではないだろうか。
と始まり、美しい文章が続く。
今から丁度半世紀前、最初の子供が誕生した。父親は朝倉家、母親は槇文彦という建築家であったといってよいだろう。(中略)
2人目の子供が生まれるのは1人目から数年後であった。その間、母親は充分最初の子供の空間における人間の振舞いを観察する機会があった。その結果第二期の空間構成は中庭を囲むかたとした。この中庭には自由に歩道から入り、外のみちにも抜けられる様に考えられている。中庭を取囲む空間は主として店舗にあてられていたが、その中でTOM’S SANDWITCHは私にとって最も印象に残るカフェであった。
と、それぞれの時代の判断が綴られていく。私が好きなのは、「孤独と賑わい」という小見出しの箇所だ。勝手に解釈して一言にすると「適切な孤独」について。読んでとても豊かな気持ちになった。
時間の経過したものを「できあがったもの」として後から見ると、途中の奮闘には気づかないことが多々ある。本書はその奮闘のあまり分厚い一冊となっているが、その詳細は、どんな街に自分が住むか、そしてどう暮らすかを考える示唆に富んでいる。代官山の街は偶然にそうなったのではなく、理念を持って時代の波を一つ一つ乗り越えて、創り上げたからこそ在る。
私が代官山で一番羨ましいのは、おしゃれさというよりも、電線のない青空が、都会なのにあることかもしれない。電線の直線で区切られた空ばかり見ている身には、広がる青空がとても心地よい。建築物の高層階化の動きは、もちろんここにもあったわけだが、それに対しての反対運動や議論の末、空を邪魔する建物がここにはない。穏やかで静かな代官山のイメージとは裏腹に、手を拱いているのではなく、きちんと向き合って対処した結果なのだ。
本書を読むと、崖の高低差をうまくカバーする階段、だれでも入れるのに不躾には歩きたくなくなるパブリックスペース、光の差し込む加減や気配――そのディテールに、俄然街が楽しくなるのである。