杉山隆男が自衛隊と職業人としての自衛官の取材を始めたのは1992年11月、40歳になる直前であった。それは、自衛隊初の海外活動であるペルシャ湾掃海の翌年、あいまいきわまりない「正当防衛」基準に悩みながら陸自施設部隊がカンボジアPKOに赴いたその年であった。自衛隊取材の当初、「さわり」だけと本人は謙遜するものの、過酷きわまりないレンジャー訓練にも参加したのだから、杉山隆男の覚悟は並々ならなかった。
その取材動機は、陸海空あわせ25万人もの武装集団であり、自己完結的な装備と機動力とで災害出動には欠かせない大組織であるにもかかわらず、自衛隊と自衛隊員の実情が見えないことへのいらだちであった。また誰もその客観レポートを行おうとしないことへの強烈な不満であった。さらには、「戦後」日本に売るほど出現した「中学生なみの正義感」の持主たち、「防衛予算は人殺しの予算」などとうそぶく者たちへの反感も推進力となった。
杉山隆男の自衛隊の旅は長く多彩であった。レンジャー訓練をはじめ、空自のF-15、海自の哨戒機P-3Cに試乗した。すさまじいGに押し付けられて気を失いかけ、急角度の上昇と下降に嘔吐した。横須賀から海自の潜水艦に乗り組み、日焼けしない海の男たちと一日四食をともにしながら海中深く潜航しつつ移動した。
しかし現場での彼は、むしろ対象の「細部」を見ようとつとめた。それは「兵士」の日常や会話の合間に立ちのぼる「匂い」ともいえた。「細部」や「匂い」の採集とその積み上げによってのみ、巨大組織の輪郭は明確にえがき得ると見通したためである。
彼の自衛隊研究は、あいつぐ巨大災害に出動する自衛隊に国民が信頼を寄せた時期と重なる。それは同時に、冷戦構造の消滅と露骨な膨張意欲を隠そうとしない中国の存在によって、「最前線」が北海道から尖閣諸島を中心とした沖縄の海と空に移る時期でもあった。那覇基地からの空自機のスクランブル回数は、北海道のそれの十倍にも達した。
やがて自衛隊そのものが変質したように杉山隆男に思われたのは、「保秘」への傾きが極端に増したからである。したがって「細部」を確認する機会は激減した。それは在日米軍と自衛隊の基地の「共同化」進行によってもたらされた。
2012年3月には空自航空総隊司令部が米軍横田基地に移転し、13年3月には陸自の中央即応集団司令部が座間キャンプへ移った。それら在日米軍と自衛隊の一体化の動きは、東シナ海で露骨な領海侵犯を行う中国海軍の動きと連動していた。また、かつて「日米安保」と呼びならわされていた条約が、「同盟」という言葉にかわって流通し始めたことと軌を一にしていた。それまでは自由であった杉山隆男の取材に広報課員がぴったりと張り付き、こと米軍に関する記述には細かなチェックが入るようになった。自衛隊は米軍の濃い影のなかに後退するようであった。
杉山隆男はその自衛隊との長い旅の過程で、説得力に満ちた多くの報告を行ってきた。まず第一作『兵士に聞け』(1995年)を刊行し、つぎに『兵士を見よ』(98年)を出した。少し間をおいて『兵士を追え』(2005年)を書いた。彼が自衛隊の変質に「違和感」を持ち始めたのはこの頃である。『兵士に告ぐ』(07年)でそれはさらにつのり、『「兵士」になれなかった三島由紀夫』(07年)を最後に自衛隊取材に終止符を打つつもりであった。
しかし11年3月、東日本大震災が起こって終止符は一時撤回された。巨大津波が人々と街をさらい、また原発の水蒸気爆発で文字どおり東日本壊滅の危機に瀕したとき、「自衛隊史上最大の作戦」が実行されたのである。非常時にその組織力をいかんなく発揮した自衛隊の行動と仕事を、杉山隆男はつぶさに聞き取って記録した。それが『兵士は起つ 自衛隊史上最大の作戦』(13年)であった。
さらにもう一冊、17年2月に本書『兵士に聞け 最終章』を出したが、あえて「最終章」と付加したのは、24年の長きにわたった自衛隊研究の旅を今度こそ終えるという意志の表明であった。
三島由紀夫は1970年11月25日、市ヶ谷台の東部方面総監室で自決した。その日18歳になった都立日比谷高校三年生の杉山隆男は、午後の授業の最初に教師からそれを知らされた瞬間、学校を抜け出して、そこからさして遠くはない市ヶ谷まで走った。何のために、何を見に、ということは考えなかった。とにかく現場に近づきたかった。
「わからない」「理解できない」、それが三島事件に接した当時の青年の共通した思いであった。文学に影響力があった時代だから多くは三島由紀夫の作品を読み、その構想力と技巧とに圧倒される経験を持っていた。私などもそのひとりに違いないが、普段マスコミをにぎわす三島由紀夫の派手なふるまいは、その哄笑癖とともに「過剰適応」ではないかと疑うところがあった。
杉山隆男の場合は、68年10月、都立日比谷高校1年生のとき、三島由紀夫と瑤子夫人をきわめて近くから目撃したという因縁があった。
当時高校新聞部の部長であった彼が自衛隊パレードの見学を申し込むと、各国の武官たちのすわる一等席に招待された。別に「右翼」というわけではなかった。ただその頃の青年たちが無条件に呼吸する「反体制」の空気に反発したい気持ちが強かったのである。国立競技場近くの道路にしつらえられた階段状の席にすわっていると、突然各国武官たちがいっせいに起立した。杉山隆男も立ち上がった。三島由紀夫と瑤子夫人が到着したのである。
思ったよりも背が低く、頭の大きな三島は、夫人とともに杉山隆男のすぐ前の席にすわった。三島だよ、三島だ、そう杉山隆男は隣席の友人に興奮気味につぶやいたが、友人の反応は鈍かった。それだけのことだが、その折の記憶が70年11月25日によみがえり、さらにははるか後年、自衛隊研究のほとんど無意識のうちに動機のひとつとなった。
『「兵士」になれなかった三島由紀夫』には、自衛隊に体験入隊した三島は、どんな場合にも率先して訓練に臨んだとある。上半身はボディビルでつくられたみごとな筋肉に鎧われていたものの、腰から下がまったくともなわなかった。それゆえ自衛隊の訓練の基本、駆け足と行軍ではいつも後れをとった。上半身の筋肉も見かけより実用性と耐久性を欠いていた。
それでも三島は特別扱いをもとめなかった。後れても、失敗しても、最後までやり抜こうとした。「兵士」三島を知る自衛隊員たちが異口同音に口にする言葉は「真面目」であった。彼は「過剰適応」的ふるまいとは180度違う、心から真面目な人であった。
その死後も三島の作品は読まれつづけたが、彼の「憂国」の心情は忘れられた。それは平和な日本に似合わぬ異物と認識されたのである。
しかし近年はどうか。「戦後意識」を支えた憲法前文には、「日本国民は」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。しかし現在の東シナ海、日本海周辺の情勢を考えると、どの国民が「公正と信義」への信頼に値するかわからない。「戦後」は私たちが気づこうとせぬうちに、とうに終っていたのである。
杉山隆男が、三島由紀夫の遺言めいた当時の物言いを思い出したのも近年のことだという。
70年9月だから、亡くなる2ヵ月ほど前のことである。日本在住の出版人、ヘンリー・スコット・ストークスの夕食会に招かれた三島は、その席で暗い表情のまま、「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」「この呪いから逃れる道はない」と謎めいたことを口にした。そのときには真意は理解されなかったが、「緑色の蛇」とはドル紙幣(グリーンバック)のことで、日本がアメリカの経済と通貨にがんじがらめにされているという比喩であった。
それより少し前、70年7月7日付「サンケイ」夕刊に三島由紀夫は「果たし得てゐない約束——私の中の25年」という一文を寄せた。そこにはこんな一節があった。
〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである〉
この見通しも当っていたと思うが、現状では「富裕な」「抜目がない」はどうか。「経済大国」もあやしいけれど、やはり私など口をきいてもらえないだろうと、僻みでも皮肉でもなく思うのである。私だけではない。「戦後」という言い方になずんで、2019年にも「戦後74年」などといいかねない人々、冷戦構造を懐かしみ、アメリカへの愛憎だけで現代史はこと足れりとするセンスの人々もまた同じだろう。
そんな「憂国」の思いもまた、杉山隆男をして24年の仕事に区切りをつけさせる契機となったのではないか。その意味で、三島由紀夫は杉山隆男のなかに生きている。
(令和元年6月、作家)