『骸骨巡礼 イタリア・ポルトガル・フランス編』身も蓋もありません
文庫解説 by 高橋 秀実
趣味は昆虫採集。長年、遺体に取り組んできた解剖学の権威、と思っているせいだろうか、養老孟司先生というとついハエを連想してしまう。
目がとても大きく複眼のようで、どこをどう見ているのかよくわからない。静かに佇んでおられるが、下手に近づくと一瞬で姿をくらましてしまいそう。部屋中を探しても見当たらず、「いない」と思っていたら、私の目元に止まっていたということもありうる。おそらく私とは違う時空を生きている。ありていに言えば頭の回転が異常に速く、私のように「そうですね」「そうなんですか」と相槌ばかりを打っていると、知らぬ間にどこかに連れていかれるような気がするのだ。
本書は南欧での墓地巡礼の記録なのだが、旅行記としてはかなりヘンである。自分で始めておきながら、ご本人が「どうしてこんなこと、始めちゃったのかなあ。自分でもよくわからない」とつぶやいているし、墓地に出かける前にホテルに宿泊するとホテル批評がぶつぶつと続き、同行する奥様の話に乗り移ったりする。墓地に向かっているかと思えば、いきなり「奈良の薬師寺に行った」と瞬間移動したり、移動する飛行機内でクリヤケシキスイ(とても小さな甲虫)を発見し、彼らの世界中での分布に納得したりする。肝心の骸骨寺では神父の解説を聞いても「なんのことやら結局は要領を得ない」とのことで、それより僧衣の色と髪の色が自分と同じであることに驚いたりする。目まぐるしく神出鬼没な視点はまるでハエのようで、なぜそうなるかというと先生はこう書いていた。
ものごとは網の目なんだから、仕方がないのである。きちんと筋を通して一本にしたらどうか。網の目論からすれば、これも一種のウソである。世界にそんなにちゃんと筋が通っている保証なんかない。筋が通るのは頭の中だけで……。
頭の中だけで通る筋を世界に当てはめてはいけない。網の目なんだからあちらこちらにつながっていくのだ。そもそも先生のテーマは身体と意識である。「黙って生まれ、黙って育ち、黙って死ぬ」身体を意識がどう把握するのか。身体がなければ意識もないはずなのに、意識が過剰に肥大化して身体をも取り込もうとしている昨今、あらためて身体に向き合うべく、墓地を巡る。養老先生の身体が骸骨という身体を巡るわけで、意識のような合理的構成が展開するはずがないのである。
というわけで、本書は随所に示唆に富む一節がちりばめられている。しかしそれらは現地での「ぼやき」のように発せられているので、ついつい見落としてしまう。しばらく読み進めた後に見落としに気がついて、該当箇所に戻って探してみると、どこにも見当たらず、私の思い込みだったのではと思いつつ、別の一節が目に留まる。夢の世界のように無意識の時は感じ取れたのに、意識的になると消え去ってしまうかのようなのだ。
本書のタイトルは『骸骨巡礼』なので、読む側としては当然のことながら「骸骨」に意識が向かうのだが、先生はポルトガルで「欧州の辺境なんだから、墓参りも面白いんじゃないか。そう思ったけれども、じつは行ってみたら意外に普通だった」と肩透かしをかます。パリのサン・ドニ大聖堂でも、内部を一巡したものの、「驚くべきことに、ほとんどなにも覚えていない」。ミラノの納骨堂で骸骨の山を見ても「なにもいうことがない」と言い切ったりする。室内装飾のすべてが人骨でできているローマの骸骨寺などは聞いただけでも驚くべき寺なのだが、「私が訪問するのはたしか三度目だが、だからどうしたというようなもので、何度行っても、変なところだなあ、で終わる」とつぶやく。
終わっちゃうの? と意識的な私は呆れてしまうのだが、誰もが死ねば骨になるわけで、もともと自分と相手との間に切れ目がない日本人からすると、「明日は我が身」と感じるだけで骸骨のほうから語りかけてくるようなことはないらしいのだ。
遠路はるばる旅に出かけたのに発見がないのか、とも思うのだが、確かに私も旅で何かを発見することなど滅多になく、意識的に「あった」フリをするだけである。「あった」ことにしないと損するような気がして、そのあたりから「意味」とか「価値」などという言葉も生まれてくるのだろう。おそらく「目的」も然り。先生によれば、現代の科学研究は明確な目的がないと予算がとれないらしい。その「目的」は予算をとることが本来の目的なのに、やがて「目的」が研究の世界を支配するようになる。STAP細胞騒動についても、論文のタイトルの中にあった「記憶を消去し初期化する」という一節をコンピュータ用語だと先生は指摘する。「現実の細胞という実体より、解釈や比喩が明らかに先行」しており、生物をコンピュータと似たようなものとして扱う意識の思い上がりだと糾弾するのである。
大体、意識っていうヤツは、という具合に先生の意識批判は四方八方に炸裂する。イエズス会、忠臣蔵、ノーベル賞、数学、「愛してます」のウソ……。「現代人の悪癖」は「なにごとも理解でき、説明可能」だと思うこと。原理主義のように世界に筋が通っているように思うのも「意識」の勘違い。「世界は意識的にコントロールできる」などという発想こそ「最悪の癖」なのだ。先生ご自身も論理性が高い学問などは「脳の中でしか成立しないはず」なので信用できず、だから虫捕りに励み、一万頭ものゾウムシの標本をつくったりしているそうなのだ。
それで骸骨?
と私は思った。骸骨はヒトなのに意識がなく身体そのもの。いわば身体性の原点なのかと思いきや、そうではない。骸骨は「情報を象徴している」という。意識が扱えるのは情報のみだが、先生の定義によると「情報」とは「時間とともに変化しない」こと。いうなれば固定化された過去であり、骸骨も過去だとするなら、そこから離れることが「すなわち生きること」だと気がつくのである。「いまごろ『生きる』ことに気が付いても遅いわ」と自嘲しつつ。ちなみに先生によると、自分が死んだとは意識できないから一人称には死がない(前作『身体巡礼』)。私たちは生きている限りずっと生きているわけで、その「生きている」というのも意識である。身体があって意識がある。意識が身体を意識する。ということは私たちが考える「身体」も情報のひとつではないかと私は思ってしまうのだが、それを言うと身も蓋もない。しかし「身も蓋もない」とは器がないということで、それで骨壺もなく露出した骸骨だったのかもしれない。
本書を何度も読み返すうちに、ふと思い出したのは荻生徂徠である。彼もまた「理」が先行する学問を批判し、次のように記していた。
義は必ず物に属き、しかるのち道定る。
(「弁道」/『日本思想大系36 荻生徂徠』岩波書店 1973年)
意義や精神などは必ず、具体的な物に付着しており、付着してこそ道も定まるということ。現物を離れると人の考えは「泛濫自肆(はんらんじし)」、つまり勝手気ままになり、それこそ我が物顔になってしまうと警告していた。養老先生にとっての骸骨はおそらくこの「物」なのだろう。荻生徂徠は勿体つけた訓詁解釈を否定することで外国文化(当時は中国)を見直そうとしていたが、先生も「徹底的に先進国」「理性的かつ明るい世界」とされていた欧米が、骸骨の扱いを見ることで「陰影を帯びるようにな」り、「主体」や「自分」などの基礎概念にウソくささを感じ取っている。概念ではなく物を見よ。言い換えるなら身体を忘れてはいけないということで、私からするとノンフィクションの貴重な心得なのである。
文庫化にあたって私は再び本書を読み返したのだが、今回はなぜか次の一節がもっとも印象に残った。
「自分のもの」という人生は、年老いてみればわかるが、貧しいものである。
人生とは人が生きるということであって、自分のものではない。先生はほとんど口にしないが、本当はとてもラブリーなヒトであることをあらためて感じ入った。ハエなんて言ってしまって申し訳ありません。
(令和元年5月、ノンフィクション作家)