小学校に通う子どもの通知表を見ていたときのことだ。教科ごとに4つの評価項目が設けられているが、「社会」のところに「おや?」と目が留まった。項目がすべて同じ文章になっている。「もしかして誤記?」と思ったのだ。
よくよく見ると同じ文章ではなかった。だが、勘違いするのも無理はない。「我が国の歴史や伝統、世界の国々に〜」「我が国の歴史や伝統の意味について考え〜」など冒頭がすべて同じ文言だったのだから。なにこれ?
2017年、初めて行われた道徳の教科書検定が話題となった。ある教科書に載った教材に文部科学省が意見をつけ、教材に取り上げられた店が「パン屋」から「和菓子屋」に変更されたのだ。
文科省は具体的な差し替え箇所を指示したわけではないというが、教科書全体を通して「我が国や郷土の文化に親しみ、愛着をもつ」点が不足していたと説明している。パン屋よりも和菓子屋のほうが我が国の伝統にかなっているということなのだろうか?
これまで「教科外の活動」に位置付けられていた小学校の道徳は、18年4月から「特別な教科」へ格上げされた。戦後、保守派は一貫して道徳教育の復活を主張してきたが、ようやく念願が叶ったわけだ。この道徳の教科化を一気に進めたのは安倍政権だ。
「我が国の歴史や伝統」を愛するのは悪いことではない。ただ、それを無理に強調するとおかしなことになる。たとえば文科省が作成した副教材『私たちの道徳』(小学5.6年用)には、「江戸しぐさ」が掲載されている。これにならい全国で「○○小学校しぐさ」を作る動きが広がっているという。だが江戸しぐさは、芝三光という人物が戦後に創作した偽史であることが、歴史研究家の原田実氏によって明らかにされている(『江戸しぐさの正体』)。
『掃除で心は磨けるのか』を読むと、道徳のみならず、子どもたちをある特定の方向へと誘導しようとする動きが盛んになっていることがよくわかる。素手で便器を磨けばいろいろな気づきがあるとか、無言で清掃すれば自分を見つめ直すきっかけになるとか、この手の「心を磨く」活動は枚挙にいとまがない。それらは一見、とてもよいことのように思える。ところが、立ち止まってよく考えてみると、首をひねりたくなるような点も見えてくるのだ。
「弁当の日」をご存知だろうか。月1回、子ども自身が弁当を作って学校に持参するという運動だ。子どもが台所に立つ体験をするのはもちろんよいことに違いない。だが、この運動の提唱者の講演会を著者が取材してみると、家族のための食事作りを楽しいと感じるような「望ましい母親像」がことさら強調されていた。子どもたちの「心を磨く」ことに熱心な人々の言葉の背後に、保守的な家族観やジェンダー観が見え隠れしているのは見逃せない。
尊敬するある大学教授が退官する際、最終講義で述べた言葉が忘れられない。「教育とは何か」と聴衆に問いかけながら、彼はこう定義してみせた。「私の言うことに異議を唱えることのできる生徒を育てることだ」と。新しい発想はいつも既成概念を疑うことから生まれる。掃除で批判的精神は磨けるだろうか。
※週刊 東洋経済 2019年4月20日号