『辞書編集、三十七年』ことばを編むとき、人間模様が見えてくる

2019年1月6日 印刷向け表示
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辞書編集、三十七年

作者:神永 曉
出版社:草思社
発売日:2018-12-05
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 本書の帯に、心惹かれるこんな一文がある。

 辞書編集とは“刑罰”である。

これは、『日本国語大辞典(日国)』の第二版編集作業中の1999年11月、小学館辞書編集部にふらりと現れた作家の井上ひさしさんが言い残していった話だ。真偽は不明だが、なんでも、19世紀のイギリスでは辞書編集が重い刑罰だったそうである。辞書編集は、語彙採集・用例採集、ゲラ(校正刷り)のチェックといった単調な仕事を繰り返すので、刑期を務めていると言っても過言ではない、というわけだ。井上さんは『日国』の随所に書き込みを施して自分専用の辞書にしてしまうほどの愛用者で、『日国』第二版刊行をめぐって社内が荒れているのを聞きつけ、編集部を鼓舞しに来たのだった。

このとき編集長を務めていたのが著者だ。1980年の春に小学館系の出版社に就職し、辞書編集部に籍を置き、以後異動することなく辞書を編み続け、2017年に定年退職した。華やかな仕事ではないし、起伏に富んだ人生だったわけでもないが、世の中に辞書一筋の編集者がそんなにもいるとは思えないので、ことばと向き合ってきたこの37年間を書き残しておくのも少しは意味があるのではないか。そうして生まれた悲喜こもごもの回想録が本書である。

そもそも著者は、就職活動時、辞書編集ではなく文芸編集志望であった。ところが、小学館を含め出版社はことごとく落ちてしまい、たまたま募集を出していた小学館系の尚学図書という出版社になんとか採用されたのだった。出版業界に潜り込めたのは良かったが、会社が文京区後楽にあったため、子どものころから大好きだった神田神保町で仕事をする夢は叶えられず落ち込みもした。

気持ちが揺れるなか辞書編集部に配属され、最初に行ったのは校閲による辞書への指摘や書き込みを自分でも調べて採用するか否か判断する仕事だった。人手不足だったとはいえ、辞書内容についての疑問を辞書編集経験のない新人が判定するのだから大変だ。しかしこの経験は後々の編集者生活で大いに活かされた。

昨年頭、岩波書店の『広辞苑』第七版が発売されたが、インターネット上ですぐに解説の誤りやミスが指摘され話題になったことは記憶に新しい。もちろん間違いは未然に防がれるべきだが、多くの辞書は改訂版を刊行することが前提となっているのも事実である。著者曰く、発刊はおろかゲラを校了したときから改訂作業は始まっているそうだ。たとえば『日国』は可能な限りそのことばの最古の使用例を載せるようにしているが、校了後さらに古い例を見つけて悔しい思いをするという具合に。

新語を増補しつつ、前の版の不備の訂正も行う終わりの見えない作業。一ページ三段組で千ページを超える辞書のゲラ読み(しかもゲラは六校まで取る場合がある)。企画書作成のために静岡県沼津市の印刷工場まで出張校正。尚学図書辞書編集部が小学館に吸収されるという環境の変化。新項目の語釈ミスで上司から叱られたり、やり手の販売部長に反発したり、宣伝部になんでそんなこともわからないのと上から目線の返事をしてしまったり。異動を考えたこともあったが、改訂版の構想や新しい企画が浮かび、けっきょく辞書編集にずっと居続けた。

しかし、つらい思い出ばかりではない。苦労したアイデアが形となって出版されたときの喜びはひとしおだ。文章を書く際の最適なことば選びに役立つ『使い方の分かる類語例解辞典』。「隘路」を「えきろ」と読んでも引けてしまう『ウソ読みで引ける難読語辞典』。ことわざ・故事成語、四字熟語、手紙の書き方、旧国名地図、といった辞書の「付録」に載せるような内容だけを集成した付録ファン垂涎の『日本語便利辞典』などなど。

そのなかでも著者が最も長い期間かかわってきた辞書は『日国』第二版だ。『日国』初版は1972年~76年に刊行され、総項目数45万、用例数75万という日本最大の国語辞典である。1990年から本格的な改訂作業が始まり、用例の出典を正確に表記する「用例主義」のもと、漢語部会、中西部会、近世部会といった語彙と用例採取の専門チームを組織し、古代から現代まで幅広く文献にあたった。最終的な用例数は100万例以上となり、この作業に10年を要した。どでかい建造物でも立てるかのようなこんな途方もない事業の裏側の労苦を思うと、こうしてあっさり書いてしまうことすら申し訳なくなる。

また、雑誌や書籍編集者と同じく、辞書編集者にもいろいろな交流がある。多くはことばの第一線の専門家たちだ。たとえば前段の用例採取チームの編集委員は日本語学や社会言語学の先生たちである。そのほかにも、元NHKの名アナウンサー、一風変わった語源本を書いてベストセラーとなった大学教授、辞書数万冊を有する辞書コレクターと、ひじょうに多様だ。

驚きのエピソードもある。法律用語の執筆をお願いしている裁判官に飲みの席で脳天エルボーを食らう。執筆者から送られてきた原稿が他社の辞書の語釈丸写しだった。豊富なことばの知識を持つルンペンが突然編集部を訪ねてくる。殺人事件の被告人から、辞書の語釈を変えて無罪証明としてほしいと依頼される……。冒頭で紹介した井上ひさしさんの訪問もここに加えられそうだ。

読み進めていくうち、地味で平板な仕事とは言われつつも、なかなかに色鮮やかな人間模様が見えてくる。これはやはりことばの源泉が人間の営為にあることに他ならない。本書の魅力は、ことばの奥深さや辞書編集のユニークさがたくさん詰まっているだけでなく、こうした人付き合いに関する逸話も充実しているところであろう。

30代から行っているコラム執筆でことばの歴史や変化に楽しさを覚えた著者は現在、全国行脚をして辞書引き学習を推進したり、テレビ・ラジオに出演したりと幅広く活動している。ちなみに、三浦しをん『舟を編む』の主人公・馬締さんのイメージのためか、辞書編集者は真面目で物静かという先入観があるが、著者はかなり明るい性格だそうである。

某社の小説大賞が出来レースだと聞いてしまったとか、自著を勤め先でなく別の版元から出したがゆえに上層部と揉めたとか、そんなことぶっちゃけていいのだろうか……とちょっと心配になる話も入っているが、ついついクスッと笑ってしまう温かみに溢れた一冊であることは請け合いだ。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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