大阪を読み解くための最後のキーワードは、「馬」だと思う。生駒山の西側や淀川の岸辺には、渡来人が多く住み、牧を造り、馬を飼っていた。そんな大阪の馬飼いが、一度歴史的な大仕事をしたことがある。越(こし)の男大迹王(おおどのみこ)〔継体天皇〕を畿内に連れてきたのは大伴氏だが、渋る男大迹王を説得したのは、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)だった。河内で馬を飼育する者たちのトップに立っていた者だ。なぜ、馬を飼う者たちが、越の王を求めたのだろう。
馬と聞けば、「さては戦争に用いたのだな」「ひょっとして天皇家は騎馬民族の末裔か」と、想像してしまうかもしれない。しかし、「大阪の馬」は、流通に用いられたのではなかったか。というのも、海の民と馬は、切っても切れない関係にあったからだ。
たとえば九州の五島列島の住民は、縄文の海人(あま)の末裔だが、『肥前国(ひぜんのくに)風土記』には、馬に乗るのが上手(騎射を得意としている)だったとある。なぜ海人が馬に乗ったのかといえば、船に馬を乗せて外洋を航海し、津(港)に着いたあと、本文で触れたように、川を遡上(そじょう)するのに馬を用いたからだ。馬は、川を遡上するためのエンジンの役目を担った。日本の在来種の馬が小振りだったのは、大きくなれば船に乗せられなくなるからだろう。
「川の流通」は下りだけではなかった。そして、多くの川の集結点で瀬戸内海につながる大阪の牧で、船を曳く馬が飼われていたのは、むしろ当然のことだった。海人が馬を船に乗せてこなくとも、川を溯(さかのぼ)ることができるシステムが出来上がっていたのだろう。大阪に多くの牧が営まれた理由は、海(瀬戸内海)と内陸部を、馬がつないでいたからだ。
馬の飼育にかかわる人たちは流通を支える人たちで、彼らが男大迹王を求めたのは、当時の日本海勢力が急速に発展していたこと、瀬戸内海から琵琶湖を経由して日本海をつなぐルートの確保が至上命題になっていたからだろう。
大阪の発展に欠かせなかったのは、水上交通だった。これは、近世に至っても、変わっていない。北前船などの海の道を利用した商売が、大阪の繁栄を支えたのだ。事情は、今も古代も、変わりない。瀬戸内海と内陸から流れ下る川が、大阪を商都たらしめたのだ。そして、極論すれば、ヤマト建国とは、「誰が大阪を支配することができるのか」の争いでもあった。だからこそ、明石海峡の制海権が大きな意味を持っていたのだ。神話の国土誕生の一ページ目が淡路島だったのは、ここが神聖な場所だったからではない。また、島そのものが大切だったわけでもない。水運の大動脈上にありながら、東西の交通をとおせんぼするという「因縁めいた土地」だったから、奪いあいが始まったのだ。
山と森林が国土の大半を占め、起伏に富み、東西南北の陸路の往来を大きな川が阻んでいたから、水運が国の命運を握っていた。だからこそ、日本列島の水運のカナメの位置にあった大阪は、日本の中心にふさわしかったのだ。そして、「大阪をおさえるための政治の都がヤマトだった」ことになる。大阪を手に入れなければ、国家を統一することもできなかったのである。
ならば、なぜ大阪を首都にしなかったのだろう。事実、古代の王、大王、天皇たちは、ことあるたびに、大阪遷都を目論んだ。特に、上町(うえまち)台地の先端に位置する「難波宮(なにわのみや)」は、幾度も利用されたのだ。政権が発展し安定すると、為政者たちは大阪を目指した。
これは、古代史に限ったことではない。難波宮のある上町台地北側の戦略的な価値が高かったために、奪いあいになった。天正8年(1580)に、織田信長はこの場所に居座り抵抗する石山本願寺を叩きのめしている。また、豊臣秀吉は、ここに巨大な大坂城を築き上げた。古代人がやっとの思いで掘削に成功した難波の堀江を防御用の堀(濠)に利用し、水の都を完成させたのだ。古代政権も戦国武将も、みな大阪を目指したのである。
ところが、ここが不思議なのだが、「都としての大阪」は、いつも長続きしなかった。七世紀の孝徳天皇は、律令土地制度の原点(全国の土地をマス目状に切り分ける上での最初の基準)となる都城を、難波に築こうとした。これを、潰しにかかったのが中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、一般常識とは異なるが、彼らは反動勢力だった(拙著『藤原氏の正体』)。孝徳天皇がせっかく造った宮を、捨ててしまったのだ。
八世紀の聖武天皇も難波宮遷都を目論んだが、藤原氏らの陰湿な抵抗を受けて、断念したといういきさつがある。
政権にとって大阪は、「のどから手が出るほど欲しい場所」なのだが、実際に都を遷すとろくなことはなかった。必ず抵抗勢力が現れ、大阪にいられなくなってしまうのだ。皮肉な土地大阪、その理由は、なんなのだろう。もちろん、大阪に都を置けば、政権は富を蓄えるが、これが政敵にとっては脅威となったのだろう。
そして、ここが大切なことなのだが、「孤立した時の大阪」はじつに脆弱だった。防衛力の欠如した土地だったのだ。
慶長20年(1615)の大坂の夏の陣で、大和路から進軍してくる幕府軍を、豊臣勢は奈良盆地側でくい止めようと目論む。しかし、幕府軍に先を越され、大阪側への侵入を許し、結果豊臣勢は、道明寺(どうみょうじ)・誉田(こんだ)合戦で敗れている。大坂夏の陣は、この段階で、ほぼ勝敗を決していたのではなかったか。
奈良盆地と大阪の間にある生駒山は、大きな楯になっていて、ここをおさえた者が、畿内で主導権を握ることができた。大阪から攻め上る敵を撃退できたからだ。
生駒山のもうひとつの役目は、奈良盆地から大阪に攻め下る敵を追い返すことだ。壬申の乱(672)の直前に天智天皇は生駒山に高安城(たかやすのき)を築いた。唐の遠征軍を意識したのではないかと考えられていたが、発掘の結果、東側の斜面に存在したことが分かっている。これは、「内側の敵」を想定した城とわかる。『藤原氏の正体』の中で触れたように、天智天皇は人気が無く、ヤマト盆地から逃げるように近江の大津宮(滋賀県大津市)に都を移して即位している。天智天皇はヤマト盆地に盤踞する旧勢力が恐ろしく、生駒山に城を構えたのだろう。この場合、生駒山は「奈良盆地の敵に対処する役目」を果たしたことになる。
ヤマト盆地と大阪の命運を握っていたのは、ヤマト盆地西側の山並み、生駒山や葛城(かつらぎ)山系なのだ。この一帯をおさえれば、大阪から東に向かう流通ルートも遮断できる。
これはすでに、ヤマト建国時から分かっていたことだ。古代最大の豪族物部(もののべ)氏が、生駒山の大阪側だけでなくヤマト側にも土地を確保し、影響力を及ぼしていたことは、大きな意味を持っている。ちなみに、生駒山は古くは「ニギハヤヒ山」と呼ばれていた。ニギハヤヒは物部氏の祖でヤマト建国の功労者だ。物部氏が長い間ニギハヤヒ山を独占していたから、古墳時代は安泰だったのかもしれない。
ただ、そうは言っても、ヤマト建国のあと、いくつかの内紛はあったし、難波に都を遷すとなると、一筋縄ではいかなかった。ヤマト政権内部の政争で足を引っ張られ、「便利な大阪」は、「誰の手にも渡すことのできない土地」となり、しかも、大阪で繁栄する者に反発するグループは、ヤマトの盆地に居座り、「攻め下るぞ」「東を塞ぐぞ」と、揺さぶりをかけたことだろう。
豊臣秀吉は、難攻不落の大坂城を築き上げたが、九州に防衛上のネックがあったように、大阪も、「東が台頭したら勝ち目はなかった」のだ。だから、大阪は経済の中心としてはうってつけだったが、政治の中心は、奈良盆地か京都盆地以外には考えられなかったのである。