平成最後の夏、甲子園は100回目の記念大会、全国から集った56校が熱戦を繰り広げている。おもわぬ伏兵による逆転ホームラン、大差を諦めずに追いつき逆転した試合、2ランスクイズによる逆転サヨナラなど、とにかくドラマチックな試合が多い。そして、メディアは選手やチームに隠されたストーリーを掘り起こし、盛り上がりに加勢する。また、アルプススタンドもアツい。補欠の野球部員とブラスバンドが他校に負けじと毎年新しい楽曲を取り入れ、創意工夫を凝らしている。
その甲子園において、長年にわたって定番のメロディーがある。「栄冠は君に輝く」だ。「雲は湧き、光あふれて…」ではじまる詩は、高校球児や高校野球ファンには定着した、つい口ずさんでしまう歌詞である。しかし、その作詞を担当した加賀大介は一度も甲子園を訪れていない。なぜだろうか。
1948年、甲子園は三十回大会を迎えるにあたり、大会歌を新聞紙面で募集した。作曲は、阪神タイガースの「六甲おろし」早稲田大学の応援歌「紺碧の空」などを作曲した古関裕而。賞金は5万円、当時の甲子園の給与の10倍以上であった。5252編の応募の中から選ばれたのは加賀道子、女性であることが新しい時代を感じさせ、採択の理由のひとつであった。当時、金沢市の郵便局員だった彼女のもとには取材が殺到した。作詞者として甲子園への招待は事あるごとに届いたが、頑なに断り続けていた。
実は、私じゃないんです
50回の記念大会を控えた1968年2月、道子は取材を通じて真実を告白する。本当の作詞者は夫であると。「栄冠は君に輝く」の作詞者を妻の名で応募したのは、賞金稼ぎだと思われることを嫌ったためであった。
加賀大介は仕事仲間との野球を楽しんでいた最中の怪我が原因で、片足を切断する手術を受けた。まだ、麻酔の技術も発達していない当時、早慶戦をラジオで聞いて、痛みを忘れようとした。それほどの野球好きだった。野球ができない体になった後、文学賞をとって東京に行くという目標をもった。それが文学を志した加賀大介にとっての甲子園に値する、人生をかけて追い求めたことであった。
しかし、当の本人には稼ぎはほとんどない、自宅にずっといるのだが、子育ても家事もまったくしない、不器用で頑固な性格で、文学のみにすべての情熱を注ぐ。ペンネームだった「加賀大介」を自身の本名に改名するほどだ。もちろん、その変更をいやいやながら、すべてを手伝ったのは道子。被害を受けたのは二人の子供たち、名字が一夜にして変わったのである。
作詞者であることが公開された後、甲子園からは記念大会のたびに招待が届いたが、一度たりとも足を運ばなかった。それどころか、生前、娘には一度たりとも、自分が作詞したと語らなかった。死の直前に自身でプロデュースした葬式でも曲を流すことをよしとしない頑固さ(甲子園の閉会式では「栄冠は君に輝く」にあわせて優勝校・準優勝校が行進したあとに、「蛍の光」を歌う。その「蛍の光」を自身の葬儀での曲に選んだ)。徹頭徹尾、亭主関白を押し通しながら、最期まで文学賞をとることを夢見た大人げない永遠の文学青年であった。しかし、最後まで自分の欲した舞台で栄冠に輝くことはなく、その生涯を終えた。
死後の翌年、100回記念大会で始球式をおこなった男が同じ町内に誕生した。甲子園での5連続敬遠で負けて名を上げた松井秀喜である。この奇縁がなければ、無名の作詞家の物語は掘り起こされることなく、日の目を見ないままだったかもしれない。わがまますぎる在野の作詞家の頑固さとそれを支える妻の献身さ、片田舎にあった昭和の家庭をしみじみと味わえるノンフィクションである。