ゲノム革命は我々の想像を超える速度で進行している。ワトソンとクリックが生命のセントラルドグマを解き明かしてからわずか半世紀と少しの間に、PCRやCRISPR−Cas9などの革新的な技術が次々と開発され、SFの世界にしか存在しないと思われたような成果を次々と現実のものとしている。遺伝子共有サイトのデータが迷宮入りしていた凶悪犯罪の犯人を追い詰めたという事例にも見られるように、その影響は多岐にわたり、私たちの生活のあらゆる面を大きく変える力を持つ。
中でも2009年以降に急速に発展した古代DNAの全ゲノム研究の発展は特筆に値する。この分野はマックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボによって確立され、ネアンデルタール人と現生人類の直接の祖先が交配していたことを明らかにした。だが、古代DNA解析が明らかにするのは、単に各種旧人類とホモ・サピエンスとの交雑の有無だけではない。古代DNA革命は17世紀の光学顕微鏡の発見に匹敵する程の影響力を持っている。顕微鏡が広大なミクロの世界を知らしめたように、古代DNAは文字や考古学的遺物に残らない歴史の真実をのぞき見る助けとなる。
原書『WHO WE ARE AND HOW WE GOT HERE』は2018年3月に出版されたばかり。変化の速いこの分野の最新状況を知ることができる。タイムリーな翻訳に加えて、原注を含めると450頁を超える大部を3,000円以下に抑えた出版社には拍手を送りたい。古代DNAの全ゲノム解析がどのような技術に基づいているか、そしてその分析が何を明らかにするかを教えてくれる本書『交雑する人類』は、今後の人類の起源をたどる旅で必携の一冊となるはずだ。ペーボのもとでいくつかのプロジェクトの中心的役割を果たした後に自身の古代DNA研究室を立ち上げた著者デイヴィッド・ライクは、短期間で急速に発展拡大を続ける古代DNA研究の全容をエキサイティングなストーリーに仕上げることに成功している。
本書は先ず、「ミトコンドリアDNAによって表される純粋な母系とY染色体によって表される純粋な父系」のみを頼りにすることの限界を示し、全ゲノムを分析することの重要性を解説するところからスタートする。詳細な説明は本書に譲るが、ミトコンドリアDNAによって辿ることができる過去は約16万年前までであるが、それ以外の大部分のゲノムを解析すれば100〜500万年前にまで遡ることができる。今あなたが思い浮かべる人類進化の歴史は、ミトコンドリアDNAという全ゲノムの中のほんのわずかの情報によって得られた証拠に基づく危うい仮説かもしれない。例えば、2011年の研究では非アフリカ人のボトルネックイベントは、これまで考えられた期間より遙かに長いことが示されている。私たちは5万年前から急速に繁栄したわけではないようだ。
古代DNAがもたらす成果の中でも特に興味深いのが、「ゴースト集団」の発見である。ゴースト集団とは、考古学的証拠見つかっていないものの、のちの人々への遺伝的学的寄与からその実在が確認された未知の人類集団である。デニソワ人、ネアンデルタール人とアフリカ人の遺伝的距離を調べると、現生人類に至る系統から90〜140万年前に分離した謎の集団がデニソワ人と交配していたことが示された。考古学的資料に頼ることなく、これまではその存在のヒントすらなかった新たな旧人類集団が、古代DNA分析によって発見されたのだ。そして、この「超旧人類」と呼ばれるゴースト集団の発見は、人類の出アフリカがこれまで考えられていたシナリオとは異なるものである可能性を示唆している。さらに驚くべきことに、このゴースト集団が世界各地で発見され始めた。どうやら過去の地球は、想像以上に多様な人類に満ちていたようだ。
ゲノムワイド分析は、これまで議論が分かれていた近代にいたる歴史の変遷過程に、断固たる証拠を突きつけることもできる。例えば、インドのカースト制度がいつから族内婚規則を実効的に強制していたかについて、ある者は何千年も前の古代から続く伝統だといい、またある者は強制的な族内婚は18世紀に始まったイギリスの植民地政策の一環だと主張してきた。著者等は多くのインド人グループのゲノムを解析することで、その多くが人口ボトルネックを経験していたことを突き止めた。そして、そのボトルネックのタイミングの多くが非常に古い2,000〜3,000年前のものだったことから、インドではカーストが何千年にもわたって実行的に機能し続けていたことを確かめたのである。
人の移動は歴史に大きなうねりを生み出してきたはずであるが、第二次大戦後の考古学界においては、人の移住が文化や言語の変化をもたらしたという説明はタブー視されてきた。これは、20世紀初頭のドイツの考古学者コッシナが提唱した「物質的な文化の広がりを用いて古代の移住をたどることができる」という主張を、ナチスが「移住は、一部の人々の生まれながらの生物学的な優位性によって行われたのだ」という最悪のかたちで政治利用したためである。考古学者たちはどうにかして、考古学記録に見て取れる変化を移住以外のアイデアのやり取りなどで説明しようと試みてきた。
ところが、古代DNAは疑問を挟む余地のない交雑、移住の証拠を提供する。さらに言えば、遺伝学だけが「人々の大規模な移動が起こったことを疑問の余地なく証明できる」のだ。本書では、ヨーロッパ、アメリカやアジアでどのように人類が移動し、文化を伝え、交雑したかを新たな証拠を基に描き直していく。そこには、想像を超えるダイナミックな交雑の歴史が見て取れる。人類は長い期間にかけて、混ざり続けてきたのだ。
驚くべき成果を次々と生み出している古代DNAだが、課題や困難も数多い。アメリカ先住民はその不幸な過去のために西洋の科学者に対する不信感を持ち、研究に協力的ではない。また、「西アフリカ人」や「ヨーロッパ人」などのグループ間の差異をクリアに示す研究結果は、容易に人種差別に転用され得る。しかし、著者は研究の手を止めてはならないと主張する。アカデミックな世界に反発する右寄りの「ゲノム・ブロガー」と呼ばれる集団が、ゲノム革命で得られたデータを民族主義的主張に利用する現実から目を背けてはならないと訴える。
集団間の実質的な差異などありそうもないと暗にほのめかすという戦略はもう通用しないし、明らかに有害だ。わたしたち科学者はそのことを肝に銘じるべきだ。もし科学者としてあくまでも意地を張って、人間の差異を理性的に考察するための枠組み作りを怠るなら、その空白は似非科学で満たされ、オープンに話すよりも遙かに悪い結果を招くだろう。
私たちはどこから来たのか、という究極の問いに確かな道標を与えてくれる一冊である。
アジアにおける人類進化という類書の見られないテーマを中心に据えた一冊。人類進化においてアジアがどれほど重要な場所だったのかを教えてくれる。この本の監修者である国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長の海部陽介氏は、『交雑する人類』の中でライクの誤りを指摘する人物として登場している。『交雑する人類』でも述べられているように、アジアにおける人類進化の研究はまだまだデータが少なく、これからいくつもの驚くべき成果が聞こえてくるはずだ。レビューはこちら。
古代DNAという新たな分野を切り拓いたペーボの自伝的一冊。科学的発見の興奮はもちろんだが、ペーボ自身のキャラクターが面白すぎて、わくわくの止まらない一冊。
ゲノム革命の科学的背景を一般読者に向けて分かりやすく解説してくれる一冊。レビューはこちら。