本書は1933年生まれ、2015年に亡くなった、神経内科医オリヴァー・サックスの最後の本 である。サックスはイギリス人であるが、ニューヨークで医師として多くの業績を挙げ、コロンビア 大学の教授も務めた。サックスの愛読者なら、すでに彼の著作をいくつか知っているであろう。その大部分は彼自身が診 み た患者に関するエピソード的な記録である。医学的、科学的であると同時に、文学的な叙述だと言っていいかもしれない。
その意味では、本書にはやや違った趣がある。全体は十章に分かれるが、いずれもある特定の医学的、生物学的な主題を論じている。第一章では、なんと植物学者としてのチャールズ・ダーウィンが描かれる。これはサックスがべつに奇を衒ったわけではない。ダーウィンは若年の時にビーグル号で航海しただけで、あとは自宅にいわば引きこもり、一切の公職に就かなかった。つまり一見地味な生涯を送った。しかしそれとは対照的に、優れた博物学者であり、動植物に関して広範な関心を抱き、 進化と適応という目で身近な生物を精細に観察した。その中にたとえば植物があり、ミミズがある。 どちらも自宅の庭で観察できる。ダーウィンの最も優れた業績は、ミミズの研究だと断言する学者がいるくらいである。
サックスはなぜ植物学者としてのダーウィンを語ろうとしたのか。その最大の動機は彼が生物学史 を自分流に書きたかったからではないか、と私は感じる。後の章でも書かれるが、サックスは物語に魅かれ、物語を語る適性を持っていた。それを彼は母親譲りだという。サックスの両親も医師で、子どもの頃には母の語る物語を喜んで聞いたと書く。誤解がないように付け加えるが、物語とは必ずしもいわゆる「お話」ではない。科学上の話もまた、物語性を持っている。それはかならずしもヒトが創り出した創作、ウソではない。じつはヒトは物語としてしか、過去を叙述することはできない。誤解を恐れずに言えば、神経系の研究者としてのサックスの本音は、おそらくそこにあった。これは後の記憶の章を読んでも明らかであろう。それならサックスが本書で書いたような書き方で、歴史を書くことになるはずである。つまり本書はサックスの生物学史の試みとして見ることも可能である。
イギリス人は物語が好きで、ダーウィンの時代には、ディッケンズ、サッカレーのような優れた語り手がいた。現代はその意味での壮大な物語が欠ける時代である。なぜそうなのか、私にはまだ十分に理解できていない。むしろ歪曲された物語が世間に登場し、オウム真理教に至ってしまう。さもなければ、バラバラの個々の事実がただひたすら積み重なり、収拾が付かない事態に陥っている。それ を情報過多などと呼んで済ませている。そんなふうにも見える。
第二章は「スピード」と題されている。サックスはここで時間意識を扱う。サックスは若い頃、オートバイに凝った。その個人的体験もおそらく背景の一部になっている。時間意識は意識の作用としては難問である。危機の時にヒトは時間の流れがきわめて遅くなると感じる事例がある。星新一は人類の記憶と絡めて、それを上手にショート・ショートで描いた。サックスの見た症例では、この時間意識が、危機の時と同じように極端になってしまうことがある。それがカタトニーであり、トゥレット症候群であり、パーキンソン病である。こうした病をサックスは砂時計あるいは鉄亜鈴の比喩で語る。両端が大きく、中間は細い。でもいわゆる健常な時間意識は、この細い中間領域に位置するのではないか。いわゆる双極性を持つ障害は、一方から他方へ、急激に変化することがあるからである。
第三章は「知覚力──植物とミミズの精神生活」である。この章は意識の起源に肉薄しようとする、サックスの試みであろう。植物もミミズも、精神生活というほどのものを持つはずがない。それが大方の常識だが、「意識」という主題を真面目に考えると、簡単にそうは言えないことに気づくはずである。森山徹『ダンゴムシに心はあるのか』をお読みになったことがあるだろうか。意識の起源に関しては、生命の始まりから、すでにその萌芽があるのではないかとする、哲学的な立場もあるくらいである。
第四章と五章は、本書の中で中心となる部分である。いわば意識の本体に言及しようとしているからである。四章ではフロイドを扱い、五章では「記憶は誤りやすい」ことを語る。フロイドを扱ったのは、ダーウィンの場合と同じで、ただし自然選択による進化論のような明確な仮説がない領域だから、具体的な神経組織を扱う神経学者としてのフロイドが、精神を扱うに至る経緯を要約している。一言でそういうのは簡単だが、いわば物質から精神へ飛ぶのだから、この飛躍は簡単に書けるようなことではない。サックスは解答を提示しているわけではない。すでに述べたように、いわば「歴史」を書いているのである。第五章はそれに関連して、おそらくいまでは多くの人が気づいているであろう、記憶の誤りについて記す。なぜそれが重要なのかというと、記憶は固定したものではなく、つねに再構築され、新たになるものだということが、神経系というシステムの機能自体を暗示するからである。
自分が体験して覚えているんだから、間違いない。神経学的に言えば、これほどアテにならない言明はない。でも根本はそこではない。ここではサックスは自分の意見ではなく、やはりフロイドを大きく援用する。「想起はそのような局所的なニューロンの痕跡……を必要とするが、それをはるかに超えて、本質的に生涯にわたって変化や再組織を起こす動的プロセスである。」
表現は難しく感じられるかもしれないし、またこれを日常的に体験する人は少ないであろう。現代は情報化社会であり、情報はいったん固定されると、まったく動かない。だから我々自身が自分の記憶をそれに似たものと錯覚するのは当然かもしれない。しかしなにかを思い出すことは、新たに作り出すことでもある。それを言葉の上ではなく、実感できるためには、おそらくその実体験が必要なの である。フロイドは具体的な神経学者から精神医学者に変わった時、そうしたダイナミックな変化に気づいた可能性がある。だからサックスはその時期のフロイドを論じるのである。
これを日常的な言葉で言えば、ヒトは変わる。ただし社会的存在としてのヒトは、むしろ変わってはならない。昨日の私は、今日の私ではない。そう主張して、昨日の借金を踏み倒すことはできない。社会は「同じ私」を要求し、したがって進歩し、成熟していく私はしばしばストレスを受ける。それが現代社会であろう。自分自身を動的な過程として捉えること、それができることが真に「生きる」ことなのだが、昨日も今日も会社や官庁、組織に勤務していれば、なかなかそうは思えないのは当然のこととも言える。
第六、七、八章は比較的軽い内容の章である。第六章は老年で耳が遠くなったサックスの聞き間違いに関する挿話、第七章は「創造的自己」すなわちアハ体験とか、ひらめきとか呼ばれる現象についての章である。第八章は片頭痛だが、「なんとなく不調な感じ」として、自律神経系の状態と意識の関係を取り上げている。自身の肝臓がんの手術後の体験が活写されている。どうしようもない苦痛の状態から、いわゆる典型的な元気な状態へと移り変わる、その変化が第二章で扱われた砂時計の比喩の一例にもなっている。
第十章は「暗点──科学における忘却と無視」である。ここにはサックスの科学や思想に関する歴史観がよく出ている。科学の世界でも、時局に合わないものは無視され、忘れられる。暗点とは、生理学ではよく知られた用語であり、視野に見えない部分が初めからあるのだが、脳はそこを「ないもの」として視野を埋めてしまう。私自身も、まだ埋められたままだなあ、と感じることが多い。もちろん暗点なのだから、埋めているほうには埋めている意識はまったくない。非難でもなんでもなくて、「ヒトの意識の世界とはそういうもの」なのである。自分でもそうしているに違いないからである。
サックスは私より4歳年上、ほぼ同年配と言っていい。第二次世界大戦を子ども時代に経験した年 代である。彼が引用する書物、著作者には、私が親しんだものも多い。いわば同じ世界の空気を吸って育った感じがする。その世代は次第に消えて行く。だからサックスの訃報を聞いた時には、寂しい思いがした。本人に会ったことはない。でも数多い著作を読めば、会う必要もない。
サックスが英国の背景を持つことは重要である。トランプに代表されるようなアメリカは、サックスには住みにくい場所であろう。東方の僻地に住む私にとっては、どうでもいいようなことだが、若い時から感じていたことがある。イギリス人の論文は面白いが、アメリカ人の論文は詰まらない。おそらくこれは、サックスがいわば歴史を書こうとしたこととも関連するであろう。アメリカ人なら、歴史より、現状のデータをコンピュータに入れるはずである。だから物語が消え、世界はだんだん面白くなくなるのに違いない。コンピュータがヒトと置き換わるのは、ヒトがヒトであるくせに、コンピュータのようにばかり、考えようとするからである。