ある国際学会で、若手研究者プログラムの責任者を仰せつかったことがある。世界各国から100人程度の優秀な若手研究者が合宿形式で集い、成果を発表する。その中から、5名の優秀者を投票で選んで表彰しようという趣向である。
受賞者の顔ぶれを見て、学会トップで賞のプレゼンターである英国人女性研究者が、いきなり烈火のごとく怒り出した。どうして5名の中に女性が入っていないのかというのだ。正直、驚いた。公正な投票で選んだので、と説明しても怒りはおさまらない。賞金は自腹で出すから女性を一人追加しなさいとまでいう。もちろんそこまで言われたら受け入れざるをえない。5名の予定を6名に増やし、賞金は学会に出してもらった。
グローバルスタンダードはそこまできているのかと、心底驚いた。十年以上も昔の話である。この出来事があって、男女共同参画についての考えが大きく変わった。といえば、聞こえはいいが、ある種のトラウマになったと言ったほうが正確だ。
女性教員比率をあげる、ということがどの大学でも叫ばれている。徐々に改善はしてきているが、十分かというと、まだまだである。よほどのアファーマティブアクションをとれば話は別だが、大学というものの体質からいくと、なかなかそうはなるまい。なので、もうすこし長期スパンで考えざるをえない。
第一生命保険が幼児や小学生を対象におこなった『大人になったらなりたい職業』調査(2018年)を見ると、男の子の一位は「学者・博士」である。東京大学社会科学研究所とベネッセ教育総合研究所が小学校4~6年生、中学生を対象におこなった調査(2015年)でも、「研究者・大学教員」は四位だ。おぉ、それは実体を知らんからやろ、という気もしないではないが、科学者の端くれ兼大学教員としてはとてもうれしい。一方、女の子の方を見ると、いずれの調査でも、10位までにはいっていない。
遺伝によるものか環境によるものかはわからない。しかし、なにしろ、子どものころから、学術系に進みたいと夢見る女の子は少ないのである。こういった意識がかわらない限り、たとえ制度が整備されても、女性研究者比率は思うようにあがらないのではなかろうか。
などということを、10年来のトラウマを心に秘めながらぼんやり考えていた。でも、考えるだけではあかんわなぁと思い続けていたところに、格好の本が出版された。STEM(科学 Science、技術 Technology、工学 Engineering 、数学 Mathematics)の分野で活躍した女性50人を紹介する絵本だ。伝記好きなので、とりあげられている女性科学者ちの半分くらいは知っているだろうとたかをくくっていたのだが、知っていたのはせいぜい三分の一だった。「歴史の陰にかくれがちたっだ」女性科学者という出版元の文句にいきなり納得である。
ぶっちぎりの有名人は文句なしでマリー・キュリー。この人のことは言うまでもあるまい。もちろんノーベル賞受賞者、それも二回も獲得している。他にも、ノーベル賞受賞者としては、糖代謝のゲルティ・コリ、動く遺伝子を発見したバーバラ・マクリントック、成長因子を発見し後年はイタリア元老院議員としても活躍したリータ・レーヴィ=モンタルチーニ、ペニシリンやビタミンB12の構造解析をおこない、あのマーガレット・サッチャーの師匠でもあったドロシー・ホジキン、血液中のホルモン定量法であるラジオイムノアッセイを開発したロザリン・ヤーロー、唯一博士号を持っていな理系ノーベル賞学者である核酸医薬開発のガートルード・エリオン、ショウジョウバエ発生学の女王クリスティアーネ・ニュスライン=フォルハルト、テロメア維持機構のエリザベス・ブラックバーン、脳内GPSのマイブリット・モーセル。もちろんいずれもが、生命科学に燦然と輝く業績をあげた女性科学者たちだ。
知名度でいえば、マリー・キュリーに次ぐのは、『沈黙の春』のレイチェル・カーソン、初の女性宇宙飛行士でコードネーム「かもめ」だったワレンチナ・テレシコワ、霊長類学者ジェーン・グドール、そして、DNAが二重らせんであることを示す決定的なX線回折像を撮影しながら早世したロザリンド・フランクリンといったところだろうか。
総勢50人分が、見開き2ページずつにまとめられていて、それぞれの履歴と研究内容が紹介されている。これらの女性科学者たちが、ジェンダーゆえにいかに苦労したかがしのばれる。それだけでなく、いかに優秀であったかもよくわかる。イラストはかわいらしいし、本文には子どもでも読めるようにルビがふってある。その上、歴史年表、実験のための器具、女性STEMの統計、簡単な用語集までつけられていて、啓蒙書として完璧だ。これで1800円は超お買い得である。
あえて、女の子に、とはいわない。すべてのこどもにこの本を読んでもらいたい。それだけではない、大人にこそ読んでほしい。科学という営みがどのようなものであるかを楽しく垣間見ることができる。版元の創元社は相当に気合いがはいっていて、特設HPまで設け、マリー・キュリーのページなどが立ち読みできるようになっている。興味のある人はぜひ覗いてみて欲しい。
「日本の科学研究-地盤沈下は止められるのか」、 『博士』に未来はあるか―若手研究者が育たない理由」といった小論を書いたことがある。残念ながら、当分の間こういったよろしくない状況が続きそうだ。しかし、この本を読んだ子どもたちが、STEMのことを知り、夢をもってSTEMを目指してくれるようになったら、ずいぶんと先になるかもしれないけれど、将来に光明が見えてくるかもしれない。
全米で20万部も売れたという本、はたして日本ではどれくらい売れるだろうか。その違いが、日米の科学リテラシーの違いを反映するのではないかという気がする。掛け声だけが勇ましい「科学立国」だが、お経のように唱え続けても全く意味はない。こういう本が売れ、STEM意識がボトムアップされていかないようでは、科学立国など夢のまた夢だ。
教養として誰もが読んでおきたいカーソンの本。
マリー・キュリーの伝記を読むならこれがオススメ。
動く遺伝子、マクリントックの伝記