人は亡くなれば、会えなくなる。話しかけても応えてはくれないし、手を触れることもできなくなる。喪失が突然であればなおのこと、現実を受け入れるのは難しい。私自身、交通事故や突然の病で親しい友人を亡くしたが、10年以上経った今でも、背格好の似た人を見かければ無意識に目で追ってしまう。きっとこの痛みは私が死ぬまで続くのだろうが、それでいいと思っている。
2011年のあの日、何万人もが同時にそんな突然の喪失体験をすることになるとは、誰が想像しただろう。
もう一度会いたい。どうしても聞きたいこと、伝えたいことがある。でも、どうすれば亡くなった人と交信できるのか?――そのひとつの答えが、「夢」である。
これまでにも『3・11 慟哭の記憶』『呼び覚まされる霊性の震災学』などを刊行してきた東北学院大学・金菱清教授のゼミによる「震災の記録プロジェクト」。その5冊目となる本書。学生たちが震災で家族や友人などを亡くした人たちに取材して、故人が出てきた夢について語ってもらった記録集である。
警察官だった息子を亡くした青木恭子さんは、震災から1か月ほどして、生前と変わらぬ普段着姿の息子の夢を見た。
恭子さんは、謙治さんの手をぐっとつかみ、「なんで? なんで? どこ行ってたの! 帰ってこなくちゃ駄目じゃない」と叫んだ。(中略)
謙治さんは恭子さんの必死の問いかけに、「冗談だから。俺がいないこんな状況なんて、冗談なんだからね」と答えた。(中略)
謙治さんを失ってから、多くの人が恭子さんを慰めてくれたが、どの言葉にも癒されることはなかった。しかし、夢の中で自分がこの世にいないことは冗談だと語る謙治さんの言葉は違った。一番、聞きたかった言葉だった。誰の言葉より心に響いた。
そうだよね、あんたがいないなんて、ありえないよね。
震災からこの聞き取りまでに6年の歳月が流れていたが、青木さんの喪失感は変わらないという。瓦礫が撤去されて交通機関も復旧し、一見、被災地の「復興」は進んでいるように見える。だが、喪失を経験した人たちの「心の復興」は、それに追いついているのだろうか。心はおいてけぼりのまま「復興、復興」と世の中は進み、時が経つほどに「いつまで立ち止まっているのか」と苦しい胸中をさらけだすことができなくなり、苦しんでいる人も多いのではないか?
学習塾を経営する菊地康宏さんは、真っ暗闇から聞こえてくる「助けてください。動けないんです」という女性の声の夢に、何度もうなされている。じつはこれは、菊地さんの実体験だった。
間一髪で津波の難を逃れた菊池さんは、近くの屋根に上がって助けを求める子どもたちの声に意を決し、寒さと暗闇のなか、ひとり救出に向かった。1人を肩車し2人を両脇に抱え、水に浸かりながら必死で自宅を目指していたときに、その女性の声を聞いたのだ。
後日、声のした方向で、女性の遺体が見つかった。声の夢に苦しんだ菊地さんは、勇気を出して女性の遺族に会いに行ったのである。
助けられなかったことを謝りたかった。仏壇に手を合わせたあと、康宏さんは女性の夫に震災の日の一部始終を伝えた。すると夫は「妻の最期を聞けてよかったです」と、想像もしなかった言葉をかけてくれた。
サバイバーズ・ギルト――生き残った者の抱く罪悪感、助けられなかったことに対する苦しみ。それが声の夢となって現れていたのかもしれない。自身の命すら危険な状況で助けられるはずなどなかったのだが、菊地さんのような体験をして今も苦しんでいる方は少なくないだろう。
ナイフで刺された痛みは、刺された人にしかわからない。
先出の、息子を亡くした青木さんの言葉である。本書では、取材をしている学生が語り手を励ましたり慰めたりすることはない。しかし、授業の課題としか考えていなかった学生が取材をきっかけに自らを恥じて生き方を見つめなおしたり、東北出身者ではなく取材に抵抗感をもっていた学生が初めて心で震災を感じたり、と率直に述べる取材の結びを読んでいると、この聞き取りは語り手自身にとっても「ナラティブ(narrative)・アプローチ――語ることによって苦しみを外在化すること」になったのではないかという思いがわいてくる。
被災した遺族が持つ心の痛みは、消し去るべきものではなく、むしろ抱き続けたい大切な感情である。死者を置き去りにして自分だけが救われるような策に対して、遺族は強い「抵抗」を感じる。
このような気持ちを否定して同じ経験をしていない者が「忘れて前を向け」と強いるのは無益だと、本書は気づかせてくれる。必要なのは無神経なアドバイスではなく、言葉に耳を傾け、苦しみに寄り添おうとする姿勢である。
本書を読みながら、何度も心に浮かんだ本がある。このレビューの最後に、改めて手にとってみたその本から、下記の言葉を引いておきたい。
死者と共にあるということは、思い出を忘れないように毎日を過ごすことではなく、むしろ、その人物と共に今を生きるということではないだろうか。新しい歴史を積み重ねることではないだろうか。「死者」は肉眼で「見る」ことができない。だが、「見えない」ことが、実在をいっそう強く私たちに感じさせる。死者の経験とは、「見る」経験ではない。むしろ、「見られる」経験である。死者は「呼びかける」対象である以上に、「呼びかけ」を行う主体なのである。
若松英輔 『魂にふれる――大震災と、生きている死者』 より