日本の出版社の数は3370社もあるそうだ。数は最近減ってはいるものの、それでもまだまだ世界的に見れば、出版活動が盛んな国だと言えるだろう。そんな出版社の中で一番古いのはどこか? と言われれば諸説あるのだけれど、360年続くという出版社が東京にあり、しかも書店を開いている! と聞き及び、これは行かねばなるまいぞ。ということで、今回は久しぶりの出版社訪問レビューだ。前後2回、よろしく~。
さてさて、やってきたのは東京、都営新宿線の小川町の駅からすぐのこちら。御茶ノ水や神保町の駅からも歩いていける便利な場所だ。
2階にあがると、書店があり、カウンターの奥につながって営業部と編集部が広がる。その出版社の名前は、「檜書店(ひのきしょてん)」。
驚きの360年という歴史は、どこからはじまったか?
さっそく迎えてくれたのは、檜書店の檜常正社長と、編集部の小林久子さんのおふたりだ。
「1,659年、京都で始まりました」
と柔和な表情で答えてくださる檜社長は、以前は銀行にお勤めだったとか。
H 関ヶ原の戦いから59年しか経っていないころに始まった、んですよね。
(HONZメンバーは、以下「H」とします)
檜 そうなりますね(あっさり)。日本の商業出版は1615年頃から京都で始まったそうです。当 時は木版印刷です。「版木」に反転した文字を彫り、そこに墨を載せて刷ります。そこから版木を所有することを「版権」というようになったんですよ。
H おおっ!
関ヶ原の戦いから59年後の江戸時代の初期。
さて、その頃に京都界隈で流行っていた芸能といえばなーんだ?
早く答えを言え、と怒られそうなので言っておこう。
それは、能だ!
能は、室町時代に観阿弥、世阿弥によって大成された。2013年に、観阿弥生誕680年、世阿弥生誕650年の記念の年としてお祝いをしたというから、軽く見積もって約650年続いている、と思うと、能って途方もなく長く、続いてきた。それは必要とされてきたということだ。
戦国時代に入ると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、と有力戦国武将は軒並み能を嗜んでいる。以前にレビューを書いた、側近による織田信長の伝記『信長公記(全)』には、信長が能を鑑賞したという記録があるし、秀吉に至っては、すっかり晩年にハマってしまい、命じて自らの偉業を伝える能の創作まで行っている。「豊公能」と呼ばれており、そのうち6曲が今に伝わっている。
そのひとつに『明智討(あけちうち)』というのがある。
内容は、そのままずばり、なんと、信長公の弔いのために自分がいかに勇猛果敢に明智光秀を討ち取ったかを延々と伝えるもの。秀吉は、武将を集めて『明智討』などの能を演じさせたそうだ。秀吉と家康と前田利家の3人で狂言を演じたという記録もあるそうで、そうなると接待ゴルフ状態か。大河ドラマ『真田丸』でも、小日向文世(秀吉)のために内野聖陽(家康)がお付き合いをさせられるシーンがあった。当時は、コミュニケーションのために武将が当たり前に身に着けておくべき芸能だったといえる。
というわけで大流行りの能。
そこで、だ。
能は、装束を身に着けた人が扇子を手に舞いながら、なにやら昔の言葉で謡っているイメージだと思う。この「なにやら昔の言葉」を詞章(ししょう)といい、それぞれの曲には詞章を記した謡本(うたいぼん)、つまりソングブックがある。この当時大流行の謡本の版元となり、出版、販売するようになったのが、檜書店の祖、山本長兵衛さんなのである。所蔵している謡本のいちばん古い奥付が1659年、以来の出版活動になるという。
檜 ただし、当時はいくつも謡本を出す版元があったと思います。江戸時代に入って「式楽」となったことで、武士階級は能を嗜みましたし、一般庶民も、演じるまでいかなくとも、寺子屋で謡をならうようになっていたのです。
H それでは檜書店さんが今につながっていらっしゃるのはなぜなんでしょう?
檜 謡本に観世流宗家の検印を頂戴していたことが大きいと思います。
なるほど、観世流のお墨付きがあったから、というわけだ。
江戸時代の町人は、謡をならうことで、その詞章にある『源氏物語』や『平家物語』などの古典に親しんだという。徳川の歴代将軍が能を愛し、式楽、つまり公的な儀式などに用いられる芸能となるという追い風もあった。また、そうなると各地で大名が庇護するようになり、謡は武士の間でも庶民の間でも、盛んになっていったのだ。その頃の謡は生活にも根ざしており、大工さんが棟上げの時に謡うこともあれば、魚屋さんが御祝いの縁起物を納めるのにも謡ったという。今でも結婚式で『高砂』を謡うことや、新築の棟上げ式で『鶴亀』を謡うことがあるのは、そういうわけなのだった。
檜 幕末の頃、私の先祖は、橋本姓、檜木屋の屋号を名乗っていたと記録にあります。この橋本家はもともと両替商を営み、仏書を中心とした出版業にも手を広げたそうです。
1864年には、長州藩と薩摩・会津が京都で戦った、禁門の変(蛤御門の変)が起きます。市中は三日間燃え続け、山本家もこの大火に巻き込まれてしまいました。二条御幸町にあった店も焼けて、謡本の板木のほとんど全てが、わずか一日で灰に……。
H 残念な……。
檜 翌年、跡取りのいなかった山本家は、隣家でもあり親交の深かった橋本家に、大火で焼けた版木の株を買い取ってもらうことにしたんです。その後、山本長兵衛の版権は全て橋本常祐(後の檜常助)が譲り受け、常祐はその版木で二条柳馬西入で出版の商いに携わります。そして、明治になって屋号を「檜屋」とし、「檜常助」と名乗るのです。その頃に金剛流の能楽師、金剛謹之輔とも親交を深め、1898年には金剛流謡本も手がけるようになりました。
H それで、観世流と金剛流の謡本を扱われているんですね。明治初期まではずっと京都だったわけですか。
檜 はい。1917年3月になると、観世流宗家が東京に来られるのに伴い、現在地の神田小川町に、「東京店檜大瓜堂(たいかどう)」を開店しました。大瓜堂は大売り堂(おおうりどう)に通じる、縁起の良い名前ということです(笑)。
H 洒落てますね~(笑)。
檜 1928年、昭和3年6月に、資本金20万円の合資会社檜書店として、東京店を本店、京都店を出張所としました。
H その頃の東京は今とまったく違っていたでしょうね。
檜 そうなんです。のどかなもので、路面側を店とし、その後ろに住んでいました。庭では鶏を飼っていたそうです。当時の当主、3代目は、菊づくりをするような温和な人でして。
H なんと(笑)。
檜 そして、1940年、私の祖父の4代目の代になると、『観世流大成版謡本』を刊行開始します。この「大成版」で、宗家は能楽研究者の方と協力して、長年の間に差異が生じていた観世流の謡の統一を目標にすべく、取り組みました。大編集作業だったと聞いています。絵を入れたり、表記をわかりやすくしたり、と工夫をしたこの大成版が現在も使われています。
4代目は、大学を出てすぐに家業に就き、この謡本の改訂に取り組んでいましたが戦争に召集され、無事帰ってこられたものの、小川町の店も自宅も空襲によって全て焼けたそうです。
H また燃えてしまったのですか……。
檜 謡本づくりのために買ってあった貴重な和紙は、3日間燃え、くすぶり続けたそうです。戦地から帰っても住むところもありませんでしたので、親戚のところに間借りをして、暮らしたそうです。
そうはいっても、戦中にみなさん謡を渇望されたのでしょう、驚くほど戦後になると謡本が売れました。なんとか店を再建しようと全力で取り組み、おかげさまで1962年(昭和37年)に、檜ビル新社屋を建てました。私自身は、銀行勤めを10年間した後、2001年に檜書店に入社した、というところです。
H そのつど、ご当主が苦難を乗り越えた……壮大なファミリーヒストリーですね。
檜書店は、書店も併設されており、見たことのないタイプの本が多いので一度足を運んでみるのもいいと思う。オンラインショップも充実している。
売り上げランキングに、思いもよらないタイトルが並ぶのを眺めるのも楽しい。世界は広いのだ。
檜書店
本社:〒101-0052 東京都千代田区神田小川町2-1
TEL 03-3291-2488 FAX 03-3295-3554
営業時間 9:30~17:30(土、日、祝日は休み)
能の歴史や、能がどういうものかを知りたい人は、檜書店の刊行するこちらがお勧めだ。檜書店では、謡本だけではなく、書店でも販売されるような能楽に関連する一般書を数多く出している。
さて、それではいったい、謡本とはどういうものなのか――?
(後編に続く)
*出版社の数は、2016年の数字。日販『出版物販売額の実態』(2017年版)によるもの。
*写真:足立真穂