無念な話ではあるが、人は死ぬものだ。
そして人はいつだってわかりやすい状態で死ぬとは限らない。自殺、事故死、殺人──損傷した死体しか残らないこともあるし、我々は時折「その人がどのように死んだのか」を深く知る必要に迫られる。その瞬間を目撃していた人がいれば話は簡単だが、人間は時に嘘もつくし、何よりそこにいなければ証言できない。その代わりに、場所にはあらゆる行為の痕跡が残り、何より、殺人/自殺/事故の時には、もはや物は言わぬが、多くの事を伝える死体が残る。
本書『死体は嘘をつかない 全米トップ検死医が語る死と真実』は、45年に渡って検死医として働き、数々の有名な犯罪事件の調査にも関わった著者が語る検死の物語。正直いって最初は「地味そうな話だなあ」と思っていたものの、読み始めてみれば意外や意外、取り上げられていく著者が関わった事件はどれもニュースを沸かせたような、話題性抜群のものばかりだし(話題性があることは決していいことではないが)、食い違う証言、錯綜する証拠、曖昧模糊とした現場を”死体が語る真実”が解き明かしていく構成はまるで上質なミステリィのようだ。
法医学者は高度な技術と最新の分析によって、血や銃弾の破片、微細な残留物、銃槍の角度、持病などさまざまな側面から死体を検証し、時にそれは正義に結びつく。しかしここは現実の人間社会であるから、常に科学的真実がまかり通るとは限らず、法廷でのやりとり、人々の”こうであってほしい”という欲求に屈することもある。『科学捜査は普通の人には見えないものを見ることができるが、科学だけでは不充分だ。それを説明する、信頼に足る尊敬すべき人々が必要なのだ。真の正義をなすために、善男善女が科学を解釈しなければならない。』
そのうえ腐敗した肉体、便や腸の内容物を調べるのでひどい悪臭に耐えながらの仕事で、医者の中でもひたすらに泥臭い仕事だ。しかしその重要性は本書を読めばまざまざと理解できるだろう。検死医であるヴィンセント・ディ・マイオと作家・ジャーナリストのロン・フランセルの共著によって綴られる文章も、ぐいぐい惹き寄せられる内容で抜群に魅力的だ。
心臓が破裂した人間はどのくらいのあいだ話せる(あるいは望み、夢を見、想像できる)のか。人間が本能的に自らの死を悟る瞬間を正確に特定できるのか。人と人とのなんらかのやりとりにはかならず痕跡が残るものなのか。
私は宙にただようこうした疑問の中で育ち、本書で明らかになるように、こうした疑問にどっぷりつかったキャリアをすごしてきた。しかし、答えはつねに満足できるものとはかぎらない。
そしてそのようなとき、私の電話が鳴る。
実際にどのような事件を解決に導いてきたのか
本書にはディ・マイオが検死医として関わってきた無数の事件がおさめられていくので、いくつかご紹介しよう。たとえば最初は「白と黒の死」と章題がつけられ、白人と黒人の間で起こった事件を追っていく。事件の概略としては、アメリカのとある地域に住む白人の自警団長が、怪しげな黒人の若者を警察に通報したのち、逃げられないように後を追い、格闘となった。
その様子をみていたものは誰もいなかったが、その後一発の銃声が響き、黒人の若者は自警団長によって射殺されたことが判明。銃の引き金が引かれた際の発射残渣の付着によって、5-10センチ未満の距離で撃たれた近射によって出来た傷で死んだと報告書に記され、それで終わりかと思われたが、全米のメディアはその事件に飛びつき、”白人の自警団長が、差別によって罪もない黒人少年を撃ち殺した”というストーリーを展開して、人々の感情を煽り立てた。
判決も何も出ていない、ただの容疑者である自警団長に対して、逮捕を求める署名は130万も集まり、新ブラックパンサー党は捕獲に1万ドルの懸賞金をかけ、さらにはそこにバラク・オバマ大統領までのっかってきて、黒人少年は35年前の私だった可能性もあるといって無意味に火を燃え上がらせた。はたして団長が相手を射殺したのは”自衛”だったのか、はたまた最初から差別意識が表に出た結果としての”差別”だったのか? 仮に意図的に殺したのだとしても、まず間違いなく自白はしないし、目撃者もいない──、そこで”検死医”の電話が鳴るのだ。
この謎を解くための要因のひとつは、5-10センチ距離の”近射”であったこと。もうひとつは、黒人少年のパーカーに空いた穴からは発射残渣の跡をみつけられなかった、つまり銃の引き金がひかれた時、銃口はパーカーの布地に接触していたということ。”5-10センチの距離で”、”パーカーと密着していた状態で発射された”。この2つが同時に成立するケースとして、黒人少年が相手の上に前かがみになり、銃を撃ったほうがその下に組み敷かれ体とパーカーが5-10センチ離れていた状態が考えられる。その状態は、自警団長の証言とも矛盾しない。
それは多くの人が聴きたかった真実ではなかったが、『真実とはそうしたものだ。つねに歓迎されるとはかぎらない』のである。他にも、突如爆死した二人の男の身元をつきとめ、”なぜ爆弾が爆発したのか、どのような状況で”を突き止める「身元不明の爆死体」。ケネディ暗殺の実行犯であるオズワルドの死体が偽物なのではないかという陰謀論を受け、墓を暴いて”本物のオズワルドだ”と判定するまでを描く「リー・ハーヴェイ・オズワルドを掘り起こす」。
近しい子どもを片っ端からサクシニルコリン(大量に投与すると呼吸が止まって死ぬが、しばらくすると体内で自然な物質に変ってしまう)で殺した狂気の連続殺人鬼に証拠をつきつける「日常にひそむ怪物」──などなどまるで短篇小説のように数々の事件を扱っていく。
おわりに
とはいえ、科学的証拠は最初に述べたように万能の薬ではない。
「推定無罪」が原則でありながらも、子どもが死んだとなると人々の目は曇り怪しい人物を吊し上げずにはいられなくなる。著者が関わった中でも、科学的証拠は”自然死”を示しそれを証言しているのに、陪審員の判断、世論の怒りと人種差別感情に押され一人の男が児童虐待の罪で有罪を受けざるを得なかったケースも紹介されている。『法医学がいまだ完璧ではないことを思うとき、私はいつも思いださせられるのだ。裁きもまた決して完璧ではないということを』
人を裁くことの難しさ、死体から豊富な情報を受け取って、曖昧な世界に確かな世界を築き上げていく検死医。その仕事はネガティブなイメージもあって志望者は決して多くないようだが、本書を読めばそのイメージもガラッと変わるはずだ。