いまもっとも話を聴いてみたい人物といえば、なんといっても白鵬である。昨年の九州場所を前に発覚した暴行事件以来、相撲界が揺れに揺れているのはご存知の通りだ。メディアはわかりやすい対立の構図を仕立て上げ、それぞれの陣営の応援団を買って出た関係者が次から次にワイドショーに登場してはもっともらしい背景を語ってみせる。相撲界をめぐる空騒ぎは一向におさまる気配がない。
マスコミの視線は当然のごとく白鵬に集中する。なにしろ9年もの長きにわたって国技の頂点に君臨してきた人物だ。彼はいまどんな相撲観を持ち、どんな未来を思い描いているのか、その思うところが聴きたい。だが一連の騒動以来、黙して語ることがない。その結果というべきか、いま白鵬は猛烈なバッシングにさらされている。思い上がっているだの傲慢だのと批判され、張り手やかち上げなどの取り口を「横綱らしくない」などと非難され、途中休場すれば「もう終わった」とまで言われる始末。
『白鵬伝』は、そんな現状に一石を投じる一冊だ。ただし本書はいわゆる評伝ではない。白鵬の相撲人生における3つの歴史的な瞬間について詳細に描いたものだ。ひとつ目は大鵬の偉業32回の優勝記録を塗り替えた瞬間、ふたつ目は伝説の大横綱・双葉山の不滅の69連勝に挑み敗れ去った瞬間、みっつ目は歴代通算最多勝利1048勝を達成した瞬間である。
著者の朝田武藏氏は元日本経済新聞の記者。白鵬に足かけ8年、のべ100時間余りにわたるインタビューを重ねてきただけあって、初めて目にする白鵬の肉声が満載だ。ある箇所では、えっ!? そんなことを考えていたのと意表を突かれ、またある箇所では、なるほどそういう事情があったのかと腑に落ちた。だがなによりも驚かされたのは、本書の中で白鵬が惜しげもなく自らの手の内を明かしていることだろう。
おそらくここに書かれていることは白鵬にとっての最高機密事項だ。対戦する力士にとってみれば喉から手が出るほど欲しかった情報だろう。だが、たとえ他の現役力士たちが本書で手の内を知ったからといって、それで白鵬に勝てるかといえば、その可能性は限りなく低いと言わざるを得ない。なぜならここで白鵬が明かしている秘密は、「相撲の奥義」とでも呼ぶべきものだからだ。白鵬がいかに前人未到の頂に立っているかということが、本書を読んでよくわかった。
白鵬がいかに凄い横綱かは、歴代1位の記録を並べるだけで一目瞭然だ。
(いずれも2017年九州場所終了時点の数字)
優勝40回
63連勝を初めとする30連勝以上が6回
51場所(8年半)連続の二ケタ勝利
9年連続の年間最多勝(2007年-2015年)
横綱通算勝利、776勝
幕内通算勝利、970勝
7場所連続優勝
横綱連続出場、722回
空前絶後の記録である。モンゴルの首都ウランバートルの都心で育った都会っ子で、5人兄弟の末っ子(兄ひとり、姉3人)に生まれた白鵬は、15歳で来日した時は62キロしかなかった。序の口最初の場所は負け越し、その後、序二段でも、三段目でも、幕下でもいちども優勝経験はない。そんな青年が後の大横綱になろうとは誰が想像できただろう。
著者が人間・白鵬に初めて関心を抱いたのは2010年春場所のこと。朝青龍の突然の引退でたったひとり綱を張らねばならない重圧の中、全勝優勝を果たしたのだが、恒例の優勝インタビューで勝利の哲学を問われた白鵬は、「勝つ相撲をとらないことです」と答えた。この謎かけのような言葉が白鵬を徹底取材するきっかけとなったという。
この言葉に象徴されるように白鵬の思考は独特である。ひところ話題になった「後(ご)の先(せん)」の追究もそうだ。
相撲は立ち合いがすべてとされる。だが伝説の横綱・双葉山は、立ち合いで遅れても、結果的に相手に先んじる「後の先」を相撲の極意として説いた。双葉山は幼い頃に右目の視力をほとんど失っており、視界をカバーするために極められた技だと思われるが、そのルーツは宮本武蔵が『五輪書』で説いた「待(たい)の先」にあるとされる。巌流島で佐々木小次郎の電光石火の燕返しを破った秘術だ。
この究極の立ち合いを白鵬は追い求めた。双葉山は必ず右足から出ているがそれはなぜか。腰の入れ具合はどうか。顔の向きは右か左か。「待つ時間」の見切りはどうすればいいか。百分の何秒かの遅れで土俵の外に弾き飛ばされる恐怖とどう戦うか――。そんなひとつひとつの要素を、白鵬はなんと場所中に試していく。しかもそれが連勝記録の更新中だったというのには驚いた。さらには62連勝を飾った日馬富士戦で初めて「後の先」が完璧に決まった瞬間を体験したと聞くに至っては唖然とさせられる。
大記録のプレシャーさえも探究心のほうが上回ってしまう。これが白鵬という横綱の特長である。たとえば本書の中で、自宅マンションで白鵬がついに「秘中の秘」の極意を著者に明かすくだりが出てくる。ここでは「呼吸にまつわること」とだけ言っておくが、白鵬がなぜ自分よりも体重のある力士を弾き飛ばせるのか、その秘密を初めて明かしたのだ。口だけでなく、白鵬は手取り足取り教えようとするが、本人にしかわからない感覚を教えようとするため、いきおい「クワッと割る」とか「バッといく」など擬音が多くなる。著者は混乱した頭で必死についていこうとする。取材する者とされる者との白熱したやり取りは圧巻だ。
だがこれほどまでに相撲のことわりを追究する凄い横綱でありながら、白鵬はなぜこんなにも批判にさらされるのだろうか。
たとえば相撲界で高い地位にある人物が、白鵬のかち上げと張り手の多用をやり玉にあげ、「美しくない、見たくない」と苦言を呈する。それを受けて、白鵬が肘にまいたサポーターに何か仕込んでいるのではないかという憶測が飛び交う。
それらの疑問の答えも本書にあるのでぜひ読んでほしい。そういったメディアが好んで報じがちな点は本質的な問題ではないことがわかるだろう。少しだけ書いておくと、かち上げや張り手は白鵬が追究する速攻相撲のパターンのひとつに過ぎないし、それで負けるほうが不甲斐ない。サポーターにも理由がある。中身をあらためさせろと言われればおそらく白鵬はあっさり見せるのではないか。
だがもちろん白鵬にも責められるべき点は多い。格下相手に猫だましを2回も繰り出したことがあるし、昨年の九州場所で立ち合い不成立を主張して見苦しい抗議を続けたことも記憶に新しい。また強さの衰えも隠せない。若手の台頭とともに初顔合わせが多くなり、金星を与えてしまう場面も目立つようになった。このところ白鵬のマイナス面が目につくようになったのは事実である。
だが、それもこれも、すべてひっくるめて「白鵬」なのだ。我々は白鵬のことを何も知らない。いや白鵬だけではない。横綱という頂点に立った者だけが目にしている光景、頂にひとり立つ者だけが感じる孤独を何も知らない。
横綱とは、「品格」と「強さ」という相容れない要素を両立させることを求められる存在である。我々が白鵬に感じる矛盾は結局、横綱という存在自体が宿命的に背負った矛盾でもあるのだ。横綱としての器量が大きければ大きいほどその中にある矛盾も大きくみえるのだとすれば、白鵬の圧倒的な強さと、時に目を覆いたくなるようなふるまいとの間の距離は、そのまま白鵬という横綱の器の大きさを示しているとはいえないだろうか。本書はそのとてつもない大きさに触れることができる一冊だ。