我らが ”サピエンス観” 崩壊!『ゲノムが語る人類全史』
ここまでわかったのか。あらためてゲノム科学のインパクトを感じる一冊だ。
ゲノムとは、ある生物の全遺伝情報を指す。地球上の全生物の遺伝情報はDNAに蓄えられている。うんと簡略化して言うと、ゲノム情報とはACGTという四つの文字が延々と書き連ねられた書物のようなものである。そのサイズは生物によって異なるが、人間の場合は30億文字だ。
その配列を決定する方法は猛烈なスピードで進歩してきた。2000年に最初のヒトゲノムが報告された時、13年の年月と三千億円の費用がかかった。それが今や10万円以下、数時間もあればできてしまう。信じられない技術革新だ。従来の酵素を使う方法とは全く異なったナノポアシークエンシングが開発されているが、これに使われる機械の大きさを知ったら、誰もが目を疑うはずだ。なにしろスマホを少し大きくしたくらいなのである。
いうまでもなく、ゲノム解析の進歩は、医学に大きな進歩をもたらした。たとえば、数多くの遺伝性疾患の原因が明らかになったし、どのような遺伝子変異が、がんの発症に重要であるかもほぼ解明された。ひと昔前まで、人類進化の研究といえば、基本的に比較形態学、すなわち骨や歯の形の比較であった。しかし、ゲノム解析技術がそのあり方を大きく変えた。
第一章のタイトルにもなっている『ネアンデルタール人との交配』が最も有名な例だろう。スヴァンテ・ペーボらが、1856年に発見されたネアンデルタール一号からDNAを抽出し、ゲノム解析を開始したのは1997年のことだ。その研究からわかった最も驚くべきことは、我々、現生人類であるホモ・サピエンスのゲノムに、絶滅したネアンデルタール人の遺伝子が3%近くも含まれていたことだ。なんと、現生人類は、かつてネアンデルタール人と交雑していたのである。
ネアンデルタール人は言葉を使えたか、という問題にも大きな進歩があった。喉の構造は、現生人類とネアンデルタール人に大きな違いはない。しかし、それは必ずしも言葉を使えたことを意味しない。チンパンジーと現生人類ではFOXP2タンパクのアミノ酸配列が異なっている、など、いろいろな研究から、言語の能力にはFOXP2という遺伝子が重要であることがわかっている。さて、ネアンデルタール人のFOXP2はというと、現生人類と同じであった。このことは、ネアンデルタール人が言葉を使っていた可能性が非常に高いことを示している。
もうひとつ、2006年、シベリア奥地のデニソワ洞窟で発見された、約4万年前に生きていたデニソワ人の話を聞けば、いかにゲノム解析がインパクトある方法であるかが一目瞭然だ。そこで発掘されたのは、歯が一本と小指の先っぽの骨だけだった。当然ながら、それだけでは多くのことはわからない。しかし、骨から抽出されたDNAを用いておこなわれた解析は、驚くべき事実をもたらした。
なんと、この女性-女性であることもゲノム解析からわかった-は、現生人類ともネアンデルタール人とも違う「第三の人類」だった。さらに、デニソワ人のDNAの詳細な解析からいくと、どうやら、いまだその骨や歯が発見されていない「第四の人類」も存在していたようなのだ。これからも、ゲノム解析によって人類進化のスキームはどんどん書き換えられていくだろう。糖分の間、目が離せない。
そんな何十万年も前のことなんか興味がないという人もおられるかもしれないが、この本、章が進むにつれて時代が下ってくるので、心配はご無用。第二章『農業革命と突然変異』では、デンプンを分解する酵素であるアミラーゼの遺伝子が増えたことや、ミルクに含まれる糖分を分解する酵素であるラクターゼの持続的発現といった進化が、一万年前に始まった農業革命によってもたらされた、という話が紹介されている。このことは、人類は、今も進化を続けている。それも、文化的要因に大きな影響を受けながら進化している、ということを示している。逆に、遺伝子が文化的要因に影響を与えることも間違いない。サイエンスはロマンだ。
第三章のタイトルは『近親相姦の中世史』と、かなりセンセーショナルである。中世ヨーロッパでは近親相姦が盛んにおこなわれていた。という話ではない。コンピューターシミュレーションによると、たった600年前に、すべてのヨーロッパ人の祖先となる一人の人間が存在することになるらしい。そうすると、現在のヨーロッパ人は、すべて「近親相姦」の末裔である、という解釈が可能になる。また、父母がふたり、祖父母が4人、というふうに計算してさかのぼっていくと、無数とも言える祖先を持たねばならないことになる。しかし、それは当然ありえない。そこらをぎゅっと押し込んで計算を進めると、現在のヨーロッパ人は、十世紀に生きたすべてのヨーロッパ人と遺伝的につながっているということになる。違う角度から考えてみると、誰々の子孫であるといった家系などというものには全く意味がないということなのだ。
第四章『人類が消滅する日』では、人類における変異や優生学の話、さらには「人種」など全く存在しないのだという話。第五章『遺伝学は病気を根絶できるか』では、ゲノムに基づいた疾患研究の話。第六章『犯罪遺伝子プロジェクト』では、暴力や殺人に関係する「サイコ遺伝子」といったものが存在するかどうかの話。などが、展開されていく。第三章までのトピックスと同様、どれもむちゃくちゃに面白い。
本書の執筆は、人々についての私の考え方に影響を与えた
あとがきにある著者の言葉を待たずとも、最後の第六章『ホモ・サピエンスの未来』まで読み進めていくうちに、我々が抱いていた人類進化についての常識が次々と覆されていく。
なかでも、現代人が持つ変異遺伝子-変異遺伝子と訳されているが、おそらく遺伝子多型という言葉の方がしっくりくる-の四分の三が、わずかこの5千年の間に生じたというのは驚きだ。ホモ・サピエンスは20万年の歴史を持っているのだから、最近になって多様性が著しくなってきているということなのである。
これは、この過去5千年の間、進化の淘汰圧が大きく低下したことを示している。先に述べたような文化と進化の相互関係を考えると、農業革命などがもたらした変化により、人類は以前よりも「生きやすく」なってきたと考えることができるのだ。一方で、最近の急速な世の中の進歩や格差の拡大は、新たな淘汰圧を産み出しているような気がしてならない。はたして、人類はこれからどうなっていくのだろうか。それに対する解答も、ゲノム解析がいずれ与えてくれるに違いない。
ネアンデルタール人については第一人者ペーボによるこの一冊。HONZにも、解説と青木のレビューが。
『病の皇帝』を書いたあのムカジーが、今度は遺伝子についての大作をものにした。遺伝子やゲノムについて知りたい人はこの本を。ちなみに、この仲野徹が監訳と解説をしておりまする。
農耕が人類に与えた影響については、この本が詳しい。
紹介するまでのないこの本。『ゲノムが語る人類全史』とあわせて読むと、サピエンスのことがすべてわかる。HONZでも村上と鰐部がレビュー、訳者あとがきもアップされている。