この秋、思いもよらない入院生活を体験することになった。幸いにも今後長期にわたる治療が必要になるような病気ではなかったが、それでも2週間ほどの入院が必要だと言われた。
それからが大変だった。ぼくの体調ではない。我が家の生活の話である。子どもはまだ小さいうえに妻も仕事がある。お互いの親は介護状態だったり遠方に住んでいたりで気軽に助けを求められるような状態にはない。もともと家事は完全に分担していたから、妻はいきなり作業量が倍になることになる。そこに病院との往復も加わるとなると、一挙に生活が回らなくなってしまうのだ。我が家の日常がいかに危ういバランスのうえに成り立っていたかを思い知らされた。
それでも我が家の場合はまだゴールが見えていたから、なんとか踏ん張れた。これが先の見えない闘病生活だったらどうなっていたことか。病床で写真家・植本一子の『降伏の記録』を読みながらそう思った。
植本の夫はラッパーのECD(石田義則)だ。植本とECDには24歳の年の差があり、2人の娘がいる。この夫婦の日常は、これまでECDの『ホームシック 生活(2~3人分)』、植本の『働けECD-わたしの育児混沌記』、『かなわない』、『家族最後の日』などで綴られてきた。植本が育児の不安をECDにぶつけ夫婦の間に溝が生まれたり、植本が別の男性に恋をしてそれでも家族のもとへ戻ったりと、いろいろなことがあったことを読者は知っている。当初は読者にもどちらかといえば温かく見守る、という感じがあったと思う。
ところが昨年、ECDが食道癌であることがわかり状況が一変した。子どもたちの世話はもちろん、一家の生計も植本ひとりの肩に重くのしかかってくることになる。日々の暮らしは大丈夫だろうか、子どもたちは不安になっていないだろうか、なによりも植本自身はいまどんな状態にあるのだろうか――。読者は息を詰めるようにして見守ってきた。
『降伏の記録』の中心となるのは、2016年11月から2017年7月までの植本の日記である。いわば現在進行形で綴られた私的ノンフィクションだ。
植本の眼は、高性能のカメラレンズのように、日常の微細な部分までを照らし出す。それは普通の人が無意識のうちに「見ないようにしていること」まで炙り出してしまう。そうやって提示される事実を前にして、ぼくたちは時にたじろいでしまうのだ。
年末年始は家で療養し、年明けに体力をつけてから手術らしい。家に石田さんが帰ってくると思うと、嬉しいというより憂鬱が先に立つ。わたしの仕事が増える。やはり引っ越さないと、この手狭な家では窮屈だ。何より、子どもとの三人暮らしに慣れてしまった。まだ先が見えない。心のどこかで、このまま石田さんは死ぬんだと思っていたんだな、と実感する。そう思うことで覚悟もできていたし、見通しもなんとなく立っていた。一人で働いて子どもを育てるしかないというプレッシャーに、時々発狂しそうになったが、発狂こそすれば子どもが育てられない。もう一人でやるしかないんだ、というところにいたのだ。どちらにしろ憂鬱だ
病院からひさしぶりに家に帰ってくる夫。そんな夫を疎ましく思う気持ちが正直に綴られる。これを読んであなたは「ひどい」と感じるだろうか。だが長患いや要介護の家族を抱え、同じような思いが心をよぎったことがあるという人は多いはずだ。
他人よりも「見えすぎる眼」を持ち、そして嘘がつけない性格であることは、時に残酷な事実を自分自身に突きつけもする。
石田さんは隣でずっと唸り続けている。(略)わたしは声をかけることもできず、石田さんの背中をさすることもできない。最近人肌が恋しいと思い続けていたが、もう相手は女性でも子どもでも猫でもいい、ただ触れたり触れられたりしたいだけなのだ、と思っていたのに、石田さんには一切触れられないことに気がついた。こんなにそばにいて、もしかしたら石田さんも触れられることを必要としているかもしれないのに、どうしてもわたしにはできない。そのことに気がついてしまい、自分で自分に愕然とした。石田さんには、できないのか、と
苦しむ夫を傍らに、その夫との間に絶望的な距離が生じてしまっていることに気づく。なんと残酷なことだろう。
夫が入退院を繰り返す中、ある日植本は若い男に会いに行く。恋人ではない。会ったことはないが顔が好みだと思ったミュージシャンに「写真を撮らせて欲しい」といきなりDMを送ったのだ。
今日わたしは男の人に会うことになっている。先々週から精神的に限界で、わたしのことを何も知らない人のところに行きたかった。もしかしたらその人は、わたしをなんらかの形で助けてくれるんじゃないかと、期待していたのだ
吉祥寺界隈でのこの半日のデートはさながら短編小説のようだ。旦那さんがいるけど多分死ぬんだ、と打ち明ける植本の気持ちを、この青年は真っ直ぐに受け止める。たとえ親しい間柄でなくとも、ただ誰かと一緒にいるだけで、人は救われることがあるのだと気づかされる。
だがそれから間もなくECDの癌の転移が明らかになる。今年の6月13日(火)のことだ。この日は雨だった。
植本は医師から余命数ヶ月を告げられ、緩和ケアなどの治療方針について説明を受ける。この日の出来事、タクシー運転手にかけられた言葉や病室での夫との会話、家から持ってきた本の目次に書いてあったこと、そんな些細な出来事の数々を植本の眼はしっかりと捉えている。そしてその間の自分の異常な精神状態も……。
本書の日記は7月13日(木)までで、巻末には「降伏の記録」と題された書下ろしのエッセイが収録されている。ここで植本は、なぜECDとの間に埋めがたい溝が生じてしまったのかということを深く掘り下げている。この文章は凄みがある。なにしろ「見えすぎる眼」を容赦なく自分自身の心の深いところへと向けているのだ。
両親、特に母親との関係に深刻な葛藤を抱えている植本は、ここで夫と自分との関係は自分がいちばんなりたくなかった両親の関係をなぞっているのではないか、ということに気づき愕然とする。そして憎んでいた母親の弱さに初めて気がつくのだ。
この「降伏の記録」という文章は、死へ向かう夫へのメッセージになっている。最終的に植本が辿りついたのは、夫と自分とは個と個の関係である、ということだ。夫は自分に向き合ってくれない、目と目を合わせてくれない、と思っていた。だがそれは、個と個で同じ方向を向いていたからかもしれない。真逆の性格でありながら、だからここまで一緒に闘ってこれたのだ、と。
人間は孤独な存在である。でもだからこそ誰かとつながることができる。死を前にして、ECDと植本一子は、ようやく本物の夫婦になれたのだ。