「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」。ずいぶん挑戦的な問いかけであるが、本書の内容もそれに負けず劣らず挑戦的である。
フランス・ドゥ・ヴァールは、ベストセラー『チンパンジーの政治学』といった著書もある、世界的に著名な霊長類学者である。そんな彼が本書で試みていることはおもにふたつある。ひとつは、彼の提唱する「進化認知学」というアプローチを明らかにすること。そしてもうひとつは、「唯一無二の人間」という見方(ないし偏見)を克服することだ。
第一の点について、象徴的なエピソードから始めよう。テナガザルは樹上性の小型類人猿で、ヒトや大型類人猿とも近縁な存在である。だがそんなテナガザルが、かつて行われた認知テストで意外なほど成績がわるかった。そのテストとは、棒を拾い上げて食べ物を引き寄せるという一見単純なものである。では、そんなテストでさえうまくパスできないのだから、テナガザルは「愚か」だということになるだろうか。
いや、そう決めつけるのはいかにも早計といえるだろう。というのも、すでに述べたように、テナガザルはあくまでも樹上生活者だからである。そのため、その手も樹々の間を移動するように進化していて、地表にあるものを拾い上げるようにはできていない。上述のテストで彼らの成績がよくなかったのも、まさにそれがゆえというわけだ。実際、テストを少し改変して、手でつかむものを一定の高さまで上げてみたところ、彼らはいともたやすくテストをパスしたという。
ときわ動物園による、シロテテナガザルのブラキエーション(手と腕を使った枝渡り)の動画。彼らの手が何のためにあるかがよくわかる。
進化認知学というアプローチ
さて、以上のエピソードから引き出せる教訓は何だろうか。それは、動物の認知能力を考える際には、それらの進化的バックグラウンドを考慮に入れなければならないということである。当たり前ではあるが、動物たちの体や能力は、人間が課すテストに合格するよう進化したわけではない。そうではなく、それぞれが生息する環境にうまく対処できるように、彼らの体や能力は進化したのである。認知能力ももちろん同様で、「個々の種の認知はその進化の歴史と生態環境に結びついている」。
ドゥ・ヴァールのいう「進化認知学」は、まさにその点を強調するアプローチにほかならない。しかもそのアプローチは、ただ進化の歴史と生態環境を重視するだけではない。これまた当たり前であるが、動物たちはそれぞれ固有の環境に適応している。そしてそれがゆえに、そうした環境に応じて、彼らの認知能力もそれぞれ固有の形に進化している。だから進化認知学は、認知を本来的に「多種多様」なものとみなすのである。ホシガラスが食べ物の隠し場所を何百と記憶することや、コウモリが反響音によって物体の位置を把握すること、あるいは、霊長類の何種かが社会的な関係性をただちに認識することなどが、まさにそのわかりやすい例というわけだ。
ところで、進化認知学の以上のような考え方は、認知に関する人間中心的な見方を退けるものでもある。なぜなら、認知はあくまでも多種多様なものであって、単一の尺度によって序列化されるものではないし、ましてやその頂点に人間が君臨するようなものではないからである。そしてそうした議論をするなかで、ドゥ・ヴァールがとりわけ強い批判の矛先を向けるのが、「○○ができるから人間は唯一無二の存在だ」という見解である。
「唯一無二の人間」という見方からの脱却
道具の使用、言語、心の理論、文化的学習、道徳的行動、メンタル・タイムトラベル…。人間のそうした能力のどれかを挙げながら、ほかの動物との間に明確な線引きをし、人間の唯一無二性を説く理論は少なくない。しかしドゥ・ヴァールによれば、そうした理論はいずれもしかるべき根拠を欠いている。というのも、そこで挙げられた能力のいずれもが、じつは人間以外の動物にも認められるからである。
そこでドゥ・ヴァールは、その点を裏づける観察事例と実験例をいくつも積み上げていく。そのなかでもとりわけ興味深いもののひとつが、「公平性」にまつわる実験だろう。
自分とほかのメンバーが公平に扱われることを求めるという道徳的な行動は、まさしく人間ならではのものだと思われるかもしれない。だがドゥ・ヴァールたちは、そうした行動がオマキザルなどにも認められることを示す有名な実験を行った。「論より証拠」ということで、その実験についてはぜひとも以下の動画を参照してほしい。
サラ・ブロスナンとドゥ・ヴァールによる実験。最初はご褒美のキュウリを喜んで受け取っていた左のオマキザルだが、隣のもう一頭がブドウをもらっていることを知ると…。詳しく知りたい人は、TED Talksの動画(日本語字幕付き)も参照のこと。
そこでオマキザルは、自分が仲間よりも軽んじられていること(自分だけが報酬としてブドウではなくキュウリを与えられていること)に対して真剣に抗議をしている。さらにその後の実験では、チンパンジーの場合には、自分が仲間よりもわるい報酬をもらったときだけでなく、自分が仲間よりもよい報酬をもらったときでさえ、その報酬を拒絶するケースがある(!)ことが確かめられているのだ。
そのようにしてドゥ・ヴァールは、問題の能力がほかの動物にも認められることを次々と示していく。結局のところ、彼が説いているのは、ダーウィンの主張した「連続性」である。「人間と動物の違いは程度の問題であって、質の問題ではない」。それゆえ、人間とほかの動物を隔てる決定的な溝などはないし、その意味で、人間は唯一無二の存在でもないというのである。
というのが、ドゥ・ヴァールが本書においておもに論じていることである。さすがドゥ・ヴァールだけあって、論じている内容のみならず、その論じ方もじつに痛快だ。とくに動物のふるまいをユニークな仕方で紹介するその語り口は、もはや名人芸としか評しようがないだろう。ドゥ・ヴァールが語ると、動物たちがこんなにも個性的で、こんなにも魅力的に見えてくることに、いつものことながら心底驚かされてしまう。
最後に、本書のタイトルの問いに立ち返ろう。「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」。もちろん、わたしたちは動物たちの賢さを知ることができる。しかしそのためには、わたしたちが心がけておかなければならないこと(認知の多様性)、把握しておかなければならないこと(進化の歴史と生態環境)が存在する。だから、動物の賢さをきちんと知るためには、まずはわたしたち自身が賢くあらねばならないのである。
フランス・ドゥ・ヴァールの第一の代表作といえば、処女作にしてベストセラーとなったこの本だろう。オスたちの政治的駆け引きと、それに絡む彼ら/彼女らの性行動を生々しく描いた傑作中の傑作。何度も腹を抱えて笑わせてくれるほどエンターテイメント性もたっぷりだ。
『利己的なサル、他人を思いやるサル』は、道徳性の問題に動物行動学の立場から踏み込んだ記念碑的な1冊。『共感の時代へ』と『道徳性の起源』では、ドゥ・ヴァールの考えの進展を知ることができる。彼の本には「はずれ」がないのが本当にすばらしい。