コロンバイン高校銃乱射事件。1999年4月20日、コロンバイン高校の学生2人が無差別に発砲を行い最終的に自殺、教師1人と生徒12人が死亡し、24人が負傷した傷ましい出来事だ。発生から15年以上が経った今なお学校銃乱射事件の代名詞的存在とされるのは、犯人であるエリックとディランがそれぞれ卒業を間近に控えた、18歳・17歳の少年だったという若さだけが理由ではない。
2年以上をかけて準備されていた計画の周到さ。そして、何百人もの生徒たちでにぎわう昼時のカフェテリアを爆破するという残虐な構想。計算ミスや完成度の低さにより爆弾は不発に終わったものの、実際の被害を遥かに上回るその計画の大きさは、人々の間に驚きと恐怖の渦を巻き起こした。
言うまでもなく、この事件を題材にして過去に多くの本が書かれている。和訳されているものだけでも、被害者遺族、加害者の友人、第三者のジャーナリストなど様々な立場から書かれた作品が並ぶ。そんなコロンバイン事件関連の本の中に、新たな視点の一作が加わった。本書は加害者のうちの1人、ディラン・クレボルドの母親、スー・クレボルドによる手記である。
幼い頃から日記を書く習慣があったという著者は、事件の前のディランの様子や、「犯罪者の母親」となった後の自身に起きた出来事や感情を細かく記録していた。犠牲者や負傷者とその家族らに対する謝罪の気持ち、ディランの本心に気がつけなかった後悔、我が子が亡くなった悲しみ、息子がやったことを信じられない事件直後の様子、事実を置き去りにしたまま加熱する報道、生活が壊れていくことへの嘆き。日記の内容を元にした回想が、本書の内容のベースにある。
最初は息子がやったことを信じられなかった。しかし時とともに明らかになることが増えるにつれ、その願いは無残にも消し飛んでいく。本人は否定していたタバコ、アルコール、ドラッグの形跡が見つかり、さらには自宅から使用済みの抗うつ剤まで発見された。実際に銃を買うため行動していたことも判明する。ディランは計画の発案者でこそなかったが、準備段階から長きにわたって参加していたのだ。
極めつけは、「地下室テープ」と呼ばれたビデオテープの存在である。乱射事件の数週間前から主犯であるエリックの家の地下室で撮影され、ディランとエリックがカメラに向かって語りかける様子が収められた映像だ。「忌まわしく、憎しみに満ちて、差別的で、人を侮辱するような言葉」を並べ立て、怒りをぶちまける、いまだかつて見たことのない息子の姿がそこには映されていた。その内容はビデオを観た捜査関係者にとっても衝撃的で、彼らは自宅に帰ると子ども部屋の検査を始めたという。
地下室テープは両親のディラン像をズタズタに引き裂いた。だが後から振り返ると、その瞬間は新たなスタート地点でもあったという。息子が自分の意思でやったはずがないという望みが完全に断たれたことで、「どうすれば防げたのか?」を考え始める踏ん切りがついたのだ。
エリックとディランはビデオ以外の方法でもそれぞれ記録を残していた。自身の内面や事件の動機について、日記や無数の端書きなどの形で書かれた多くの文章である。心理学や犯罪学の専門家、捜査関係者などの解釈も交えながら、著者がディランの動機について考えていくのが本書の後半部分だ。
ここで重要なのは、文章に綴られたエリックとディランの動機が、それぞれ異なっていたということ。エリックの動機は支配欲や自己顕示欲からくる殺戮衝動にあった。死後の診断は不可能であり、また18歳以下の未発達な脳のため正式な診断とはいえないが、エリックの日記からはサイコパスの傾向と特徴が読み取れると多くの専門家が断言した。ある精神分析医は日記を読んで、「ナルシスティックな尊大さや血に飢えた怒りにあふれている」と述べた。
一方、ディランの文章には「寂しさや憂うつや思い悩む気持ちと、愛を見つけることへの執着」ばかりが書かれていたという。彼の動機は、世の中への絶望からくる自殺願望にあった。
「ディランは自殺しようとしていた」という視点から見えてくるものがあるのではないか。そう語る著者は、多様な観点からディランが抱えていた心の闇、そしてその背景には何があったのかを丁寧に理解していこうとする。
ディランがどのようにして育ってきたのか、自分は親としてどのように向き合ってきたのかを、幼少期から事件直前のやりとりに至るまで、細かな描写とともに振り返る。専門家に話を聞き、ディランがうつ状態であったこと、その自殺願望を達成する手段として、殺人によって恐怖の感覚を麻痺させることを選んだのではないかという仮説に辿りつく。自殺予防のボランティアの活動に参加し、自殺によって我が子を失った親たちと交流する中で、子どもの自殺そのものへの理解を深めようとする。
「なぜ」という答えは永久に分らなくても、「どのように」という過程を追うことはできる。そう言わんばかりに、著者は調べ、考え、追想し、事件と向き合い続ける。詳細は実際に読んでいただきたいが、そこには嘆き悲しみ、後悔にくれることを超えて、同じような惨事が繰り返されないよう、何かひとつでも明らかにしたいという姿がある。
読み終えての結論は、必ずしもすっきりとしたものではない。突き詰めて考えていけばいくほど、明白な兆候も、絶対的な予防策も存在しないことがわかってくるのだ。予兆だったともとれそうな場面は数あれど、全てが後付けにすぎない。ディランの表向きの行動や態度は、思春期の男子にありがちなそれと見分けがつかないものだった。「親なら子の気持ちがわかるはず」というほど、現実は単純ではなかった。
エリックとディランの本心に気がつけなかったのは両親だけではない。銃や爆弾を入手していたことを事件前から知っていた共通の友人たちも、まさかそれが大量殺人のためとは夢にも思わなかった。彼らが書いた暴力的描写に溢れる作文を読んだ教師も、彼らがトラブルを起こした時に更生プログラムに当たったカウンセラーも皆、わからなかった。
できることがなかったわけではない。あそこでこうしていれば、という後悔は随所で語られている。それでも、ディランがなにか恐ろしいことを計画しているという、明らかなサインはなかった。加害者の家族がこのことを言うこと自体、とても勇気が要るだろう。わかりやすい落ち度があれば、世間もある意味「納得」できたのかもしれない。しかし、単純な真相など存在しない事件は山ほど存在するのが現実だ。
読後の爽快感のようなものはない。本書が出たからといって、著者の感情が昇華されるわけでもない。カタルシスを求めて書かれた本ではないのだ。では何のために書かれたのかと言われたなら、「大量殺人犯には明確な特徴や兆候がある」、「身近な人ならばそれを見抜いて防ぐことができて当たり前」といった根強い幻想を打ち砕くためだと答えたい。単純な見方をしないことが、同じような惨劇を繰り返さないための一歩目のように思えたのだ。
「ああすればよかった」ということ以上に、それらを凌駕するような現実の複雑さを思い知らされる。本を閉じる時に残る、消化しきれない感情。それを受け止める力を、問われているような気がしてならない。