『余れるところ』の平均長は8.3センチメートルらしい。ん、余れるところって?その由来は古事記にまでさかのぼる。かのイザナギが自らの男根を「成り成りて成り余れる処」と呼んでいるのだ。そして仏教では「魔羅(まら)」、すなわち修業の邪魔になるものという意味である。そんなこんなで秀実(ヒデミネ)さんは考えた。そこには真理があるはずだと。
序章 仏説男根 ぶっせつだんこん
第1章 包皮前進 ほうひぜんしん
第2章 千摺指南 せんずりしなん
第3章 愛染雁高 あいぜんかりだか
第4章 男色交換 だんしょくこうかん
第5章 阿吽阿吽 あうんあうん
第6章 絶頂巡礼 ぜっちょうじゅんれい
第7章 針小棒大 しんしょうぼうだい
第8章 麩茎反転 ふまらはんてん
終章 是菩薩位 しぼさい
各章につけられた、ありがたそうな四字熟語のタイトルを見れば、ヒデミネさんがいかにして真理に迫っていったかがおおよそわかる。構成はいつものヒデミネスタイルだ。それぞれの章において、専門的な内容が、文献からあるいは専門家の口を通して語られ、テーマにふさわしい人のインタビューがある。
男根をめぐるオムニバスみたいな感じになっていて、全体をまとめて紹介するのは難しい。なので、とりあえず『第1章 包皮前進』について簡単に紹介してみよう。まずは、陰茎長の話から始まり、そこに8.3センチという日本人の平均長が紹介される。
昔、この統計をとったのは軍隊だった。軍医たちが注目していたのは、陰茎長だけでなく、陰毛の生え具合であり、包皮のあり様であった。なんでも、陰毛と包皮に「男らしさ」が見出されていたらしい。なんでやねん。包茎については、昭和12年の『日本醫事新報』に軍医・奥田正治中尉による論文が出ていて、そこには、「亀頭の完全露出:23.7%、中等度露出:27.3%、仮性包茎:42.9%」と報告されている。
明治32年の調査では、完全露出が70.2%であった。そう、40年ほどの間に、仮性包茎が著しく増加してしまっていた。だから、見方を変えると『包皮前進』にあたるのだ。孫正義の名言「髪の毛が後退しているのではない。 私が前進しているのである」みたいなもんである。ちなみに、相撲取りも包茎でなければならないとされていたそうで、ヒデミネさんは結論づける。
仮性包茎こそ勇者の証
ホンマですか…
詳しく論じられているが、勃起時であっても非勃起時であっても、陰茎長をどう計るかというのは意外と難しい。どこからどこまでを計るのか、曲がっているのをどうするのか、どんなタイミングか、など、測定法によってけっこうな差が出てしまう。もちろんヒデミネさん自身も実測を試みられたが、奥様を巻き込みながら難儀しておられる。
勃起時の平均長についての論文もある。『包茎の非観血的療法に関する基礎的研究-日本男子性器の諸計測について』では、「勃起はマッサージにより射精直前のものを可及的測定した。なお症例を増加させる目的にて、トルコの従業員に計測を指導し、依頼測定した」そうだ。トルコとは、いまでいうところのソープランドのことである。しかし、そこまでやりますか…
このあたりまでは、一応とはいえ学術的なのだが、この章のインタビューでは一転、巨根の持ち主・折田和夫さんが登場する。もちろん仮名である。折田さんは、チンコの大きさを生きるよりどころにしておられる。
例えば、上司に怒られても、「こいつチンコ小さいし」と思うんです。そう思うと、「怒られても「まあ、いいや」となる
納得できるようなできないような話だ。他にもいろいろと「勝った」と思うシチュエーションが紹介されているが、ここに書くには憚られるような話ばかりなので自粛しときます。
章が進むにつれて、真理に近づいていく。そして、当然のようにその内容はエスカレートしつつ『第6章 絶頂巡礼』に至る。いきなり、「買い物でイク」46歳の主婦・西田かおるさん、この人ももちろん仮名、が登場する。さらにOLの柳町晴子さん(仮名/34歳)らの「イク」話が続いて、ひぇ~と思っていたが、まだ早かった。
次に出てくる、若きOLらによるチンコをめぐるガールズトークがすごすぎるのだ。これまた、紹介するにはあんまりなんで割愛いたしまする。しかし、ヒデミネさん、どんな顔してこんなトークを聞いたはったんでしょう。
過ぎたるは及ばざるがごとしというのだろうか、ヒデミネさん、「男根について考えすぎたせいか、私の男根はいよいよ勃たなくなった」。だ、大丈夫ですか…。しかし、第8章・麩茎反転では、次第に悟りの境地に近づいていく。江戸時代には「麩まら」というのが極上の男根とされていたらしい。
茎(まら)、勃(おき)たるが尊(たっと)からず、麩茎をもって尊しとする
勃起すりゃぁええっちゅうもんとちゃう、麩みたいにぐにゃっと融通無碍なのがええんや、という考えだ。そして、終章・是菩薩位では、いよいよ悟りの境地にはいられる。
男根が「余れるところ」だとするなら、私の「余れるところ」は境界線を見失い、どこまでも広がっていく。この広がる動態こそが「余り」ではなく、「余れる」ゆえんなのだ。
余れる「ところ」とはここだったのか。
それがどこであったかは伏せておく。
こういった本をあまり読んだことはないが、これほどに性をあっけらかんと描いた本は少ないのではないか。内容は結構エッチなんだけど、明るくからっとしているので、読んでいてイヤらしい感じはまったくしない。タブーとまでは言わないが、他人としょっちゅう話をするようなテーマではない。あぁ、こういう風に考えている人がいるのか、と感心することしきりの一冊だった。ヒデミネさん、いい本をありがとうございました。
こういう本もあります。文庫になってるんですね。
植物が官能的だっていいじゃないか。レビュー書いてます。
そういえば、この本もレビューしてましたです。