不意に「赤穂城の明け渡し」が出てくる。主人公がまだ不動産業でバリバリ仕事をしていたころのこと。倒産して夜逃げした社長の住宅の調査に出かけた。家に入ると衣服が散乱している。タンスは開けっ放し。子供部屋の壁に友だちといっしょの幼い女の子の写真。通信簿が床に落ちていた。そのとき思った。自分は絶対にこんなことはしない。「もし倒産することがあっても、忠臣蔵の赤穂城の明け渡しのように、全部掃除してピカピカに磨いて明け渡す」
歌舞伎の「忠臣蔵」でおなじみの赤穂浪士の故里は播州赤穂である。私自身、その播州の生まれなのでよく知っているが、明け渡すまでに一連の経過があった。
江戸からの最初の急使が赤穂城大手門を駆けこんだとき、第一報は殿が殿中で吉良と諍いを起こし、お預けの身になったということだけ。とたんに、国家老大石内蔵助が奇妙な行動をとった。藩の会計課長にあたる札座奉行を呼びよせ、すぐさま財務の検討に入った。藩札の発行高銀900貫目、これに対する藩の用意銀700貫目、不足額は200貫目。翌朝、直ちに藩札6分(6割)替えを告知した。
内蔵助はすでに第一報で藩のとりつぶしを見てとったのだろう。藩が消滅すれば藩札はただの紙切れであって、外に洩れればすぐさまとりつけ騒ぎになる。大名家はとりつぶしになるとき、多くが頬っかむりで通したなかで、六分替えの高率は藩の面目をかけてのことだった。
第三便でようやく殿の切腹が知らされ、ついで城明け渡しの使者がきた。対して大石内蔵助は家臣一同の願いを書きつけた文書「鬱憤之書付」を幕府に送っている。古来、喧嘩両成敗こそ天下の掟のはず。それが一方は切腹、他方は処罰なしとは「片落ち」というものだろう。片落ちを解消して道理に合う筋を立ててもらいたい──
言葉は抑えてあるが、烈しい憤りがこめられている。このままではすておかない。「以後の含み」もあるということだ。芝居では四段目の終わり、ひとり残った由良之助(内蔵助)が懐から短刀をとり出し、紫のふくさから切っ先をのぞかせて右手にもち、左手を耳のあたりに上げて見得をきる。これに義太夫の絶唱がかぶさった。〽血に染まる切先をうち守りうち守り、拳を握り、無念の涙はらはらはら……
その上での「全部掃除してピカピカに磨いて」の明け渡しだった。語り手佐藤久男は夢にも思わなかったが、何年かのち、当の自分が倒産、夜逃げ寸前に追いこまれた。だが先に「赤穂城の明け渡し」を自分に言いきかせていたのは本能による予見にも似て、なかなか意味深いのだ。
「倒産を決めるにあたり、佐藤は、どの時点で会社をたためば最も迷惑をかけないですむかを重視した」
内蔵助の六分替え流儀である。「同時に、ある決意を固めていた」。平成版「鬱憤之書付」であって、会社が倒産したからといって、なぜ社長が夜逃げしたり自殺したりするのだろう。これまで地域の雇用や流通に大きく貢献してきたではないか。経済結果にすぎないのに、どうして命で償わなくてはならないのか。
中村智志『命のまもりびと』はとても貴重な記録である。2002年に秋田で命の相談所を立ち上げ、以来独自の活動をつづけている佐藤久男(1943~)を丹念に追っている。地元の高校を出て県庁、サラリーマンを経て、34歳で独立。ひところは年商10億円をこえたが、景気低迷のあおりをくらって倒産した。50代末はうつ病に苦しみ、しばしば自殺の幻覚に駆られた。立ち直ってのち、NPO法人「蜘蛛の糸」を開設。事業に失敗して追いつめられ、みずから死を望む人の相談にのる。地道な努力の結果、自殺率ワースト1だった秋田県の自殺者の数が、めだって減少していった。
「蜘蛛の糸」は芥川龍之介の同名の小説により、天界のお釈迦さまが地上に垂らした銀色の糸にちなむが、べつにお釈迦さまを気どったわけではない。由来はともかく、蜘蛛のような細い糸を張って迷える虫を待っている。佐藤久男の活動は、いまや「秋田モデル」として自殺防止の手本になった。
相談は原則として無料。そのやり方が興味深い。何時間でも、相手の話をじっと聞いている。そして何度でも聞き役に応じる。多くの場合、次回の日時を約束して別れる。せめてその日までは、死に踏みきらないであろうからだ。
人の話を黙って最後まで聞くのは難しいことなのだ。たいていはわれ知らず口をはさみ、話を引きとって自分の方へもっていく。心の思いを話すはずの人が聞き役にまわされるとき、すでにつながりの糸は切れている。
もう一つ難しいことがあった。「死にたい」と口にする人が、どこまで本気でそうなのか見きわめなくてはならない。にこやかでも、かたく死を決意した人もいれば、いたって元気そうだが「何か歯車が合ってない」気がするときもある。どの場合も言葉ではなく、その人を前にしての「直感」を信頼するしかない。
病死にせよ事故死にせよ、死はふつうは「向こう」からやってくるものだが、自殺を考えている人は死を待ってはいない。死と対峙しており、いわば死に向かって生きている。死に対する姿勢がまるきりちがうのだ。おのずと語りかける言葉もちがう。さもないと、その人の心にとどかない。
中村智志は朝日新聞社勤務のかたわら、独自の長期取材によるノンフィクションを手がけてきた。ねばりづよくホームレスを訪ねあるいた記録『段ボールハウスで見る夢』、あるいは山谷のホスピスの人々をめぐる『大いなる看取り』。本書はそれらにつづくものだ。社会的弱者に対する深い、あたたかい眼差しで一貫している。
はじめは「とことん命と向き合っている人」をたどるつもりで、数人の人を予定していた。東日本大震災の被災地を巡るなかで、秋田の佐藤久男と同行した。やがて「命の相談役」が数人を押しのけて主役になった。その間、数年かけてくわしく、この実践者のあとについて取材した。人柄に魅了されたからだろう。人なつっこく、あけっぴろげなようでいて、緻密に考え、人一倍の努力をする。自殺を図る人は、その直前に理性で説明のつかない状態にみまわれることを、みずからの体験でよく知っていた。「瞬間的に訪れる死への衝動」を理性で押しとどめるのは難しい。
さまざまな、微妙な人間の心の状態が、聞き書きを通して書きとめてある。つまるところ、自分が自分に疎くなるのだ。疎遠になる。見なれない自分、見知らない物体であって、そんなものにかまっていられない。ある女性はそんな自分を「冷凍庫の中の固い固い氷のように真四角でカチンカチンの状態」と述べた。聞き手を前にした相談のなかで、「だんだんぶよんぶよんになって、つららが溶けるみてえに、自分の氷からしずくが垂れてきた感じ」。親しい暮らしの言葉に託して小さな復活劇が語られていく。
佐藤久男はNPO法人の設立にあたって二つのことを決めていた。一つは、相談を地域社会の経営者にかぎること。二つ目は秋田県中心に活動すること。自分に課した条件がそっくり、「命の相談役」といったことがいかに大それたことか、よく知る人を示している。だからこそ死に向かって生きている人の日常に「果てしない哀しみ」が流れているのを承知の上で、さりげなく勧めるのだ。一晩ぐっすり眠ってごらん、目覚めると哀しみが薄らいでいることもある。どんなに冷えきった心境のなかにいるにせよ、熱いうどんをすすりこむと、やすらぎを思い出す──。そんな巷のアドバイザーに目をみはりながら、中村智志はいくどとなく東京─秋田を往復した。
「秋田県の自殺者を減らしていくなかで、減らない部分が何かが見えてきました。高齢者です。根雪のように悲しみの底に横たわっているんですよね……」
「人生の秋」とはよく言われるが、通常、秋のあとに冬がくる。冬のあとには春がめぐってくる。しかし老いゆく者にとって人生の秋は冬の前ぶれであり、春は決してめぐってこない。時は過ぎ、流れ去り、再びはもどらない。哲学者のいう「時間の不可逆性」は、若いときとはまるでちがった無慈悲さ、残酷さをおびて老いゆく者に迫ってくる。
『命のまもりびと』は、秋田市の周縁部の小さな集落の公民館で講演している佐藤久男の印象深い姿で閉じられている。命の相談役が命の伝道師になった。著者がいま一度、目をみはって見つめていた光景である。日本には川柳という強力な笑いの表現がある。語り手には秋田弁というもう一つの強力な武器がある。「……抽象的な議論は何一つ出なかった。だが、不思議と活力が湧いてくるというのか、気分が明るくなって前を向いている。そんなひとときであった」
伝道師が気まじめにおしえを説く人というのは誤解である。日本には節談説教の伝統があった。おかたいキリスト教にも、アブラハム・ア・サンクタ・クララ(芸名)といった腹の皮をよじらせる説教師がいた。豊かな言葉の鉱脈をもつ東北に、たのしい、小さな復活を説く伝道師があらわれて、なんのフシギもないのである。
(平成29年3月、ドイツ文学者・エッセイスト)