2017年2月15日の朝、「考える人」休刊のニュースをネットで見つけた。つい5日前にメルマガの最新号のコラム『「鈴木伸子『シブいビル――高度成長期生まれ・東京のビルガイド』(リトルモア)」』を読んだばかりだったので驚いた。出版不況が長く叫ばれている中、休刊の報には慣れてしまったが、いよいよ「考える人」までそうなったか、と心底がっかりしてしまった。
週一回配信されるこのメルマガには「考える人」編集長の河野通和のエッセイが綴られている。最新号は第708号。二代目の編集長として登場したのが第397号だから今まで311本の原稿がある。その中から選りすぐった37回をまとめたものが『言葉はこうして生き残った』である。
著者の河野通和という編集者は、業界ではなかなかの有名人だ。長い間、中央公論社(現・中央公論新社)で「中央公論」「婦人公論」という雑誌に携わり、私にとっては“中公の顔”のような人だった。その人が突然に会社を辞め、しばらく行方をくらましていたと思ったら(本人はそういうつもりじゃなかったようだが)、2010年、突然、新潮社に入社して「考える人」の編集長になった。何があったのか業界雀たちが、いろいろ憶測していたのを思い出す。
冒頭は「ナウ・オン・ボード」という連載1回目の文章である。編集長就任の挨拶だが、ありきたりの抱負を述べているわけではない。過去に在職していた中央公論社と、これから仕事にとりかかる新潮社という老舗の出版社の歴史を比較し、創業者に思いを馳せる。出版に対する逆風に、わずかでもブレーキをかけられないものか、という気概を感じるのは私だけではないだろう。
本書は7章に分けられている。「言葉はこうして生き残った」「あらためて、書物とは何か」「出版草創期の人びと」「作家の死、一時代の終わり」「先達の「生」を生きる」「言葉の受難を乗り越えて」「命はこうしてつづきゆく」とタイトルされ、出版やジャーナリズム、あるいは言語学に携わった人々や事件、そして自分の編集者としての経験談が鏤められている。
40年間弱、出版業界に身を置いている河野にとって、駆け出し時代の思い出は今の編集者から見れば信じられないことだらけだろう。特に「野坂番のさだめ」に書かれている、昔の編集者の悲哀は、ほんの少しだけ見聞きしている私でも大笑いしてしまった。
とにかく原稿が遅く、ギリギリになってカンヅメにしても隙をみて逃げてしまう野坂昭如との死闘とも呼べる知恵比べは、今となっては楽しい思い出なのかもしれない。
作家の村松友視がまだ文芸誌「海」の編集者だったころ、野坂の原稿をもらいに行くと「2時間後にインターフォンを押してくれ」という。約束どおりその時間に行くと、なんとインターフォンごと引きちぎられていた……
亡くなった作家や学者についても、かなりの量が触れられている。河野自身が経験したことでなくても、著名であれば何らかの著作や評伝が残されているものだ。本の虫である河野は訃報に接すると、かつて読んだ作品を思い出すのだろう。そこから派生し脱線していく物語もまた興味深い。
新刊書評や新作映画評もかなりのページを割いている。私が読み、書いた本について触れられていると、気になって、つい読みこんでしまっていた。永江朗『筑摩書房それからの40年』や船曳由美『一〇〇年前の女の子』、アゴタ・クリストフ『文盲』など、自分の文章が恥ずかしくなる思いもたくさんした。
何より困るのが、本が欲しくなってしまうことだ。メルマガを読んで、思わずポチってしまった本はどれくらいあるだろう。特に新刊で手に入らない本は、とにかく欲しくなって困る。「昭和の聖水のを求めて」で紹介された宮島英紀『伝説の「どりこの」一本の飲み物が日本人を熱狂させた』の文章を読んで、この本が読みたくならない人はひとりもいないだろう。
本書の中で紹介されているだけで、茨木のり子『自分の感受性くらい』や梅棹忠夫『行為と妄想』なども買っている。本を買わせるという能力において、河野は紛れもない卓抜した書評家である。
河野の初めての著作は、ミシマ社の三島邦弘からの発案でまとめられたそうだ。章立てや選別も三島邦弘の力が大きい。ベテランの編集者が書いたものを若手の優秀な編集者がまとめる、というのは、河野が望んでいたことだろう。
「言葉」に関わってきた先人たちの情熱や願いを思い起こし、受け継いできた松明を次の世代に手渡したいという彼の思いは強い。
彼の思いはWEB「考える人」でも続いていく。次のメルマガが届くのが待ち遠しい。