近年、わたしたちの体内や体表面に驚くほどの微生物がいることが明らかになってきた。人間の体にある細胞のうち、なんと90%が微生物のものであるというし、また、人体の内部や表面には1万種を超える微生物が棲息しているという。
そのような、「私たちの体の内部や表面のほか、家庭や学校などの生活の場のそれぞれに存在する微生物の集まり」は、「マイクロバイオーム(microbiome)」と呼ばれ、最近とくに注目を集めている。本書は、そうしたマイクロバイオームの研究について、門外漢にもわかりやすく紹介する解説書である。
それにしても、マイクロバイオームはなぜそれほど注目を集めているのだろう。その理由は、それについての研究が進展するにつれ、健康に対するわたしたちの考え方が変わってきているからである。
これまでわたしたちは、「ひとつの微生物でひとつの病気」と表現できるような考え方を信奉してきた。すなわち、病気になるというのは、単一の微生物(やウイルス)を原因とすることであり、また、健康を取り戻すというのは、そうした病原体を撃退することにほかならない、とする考え方である。だが実際のところは、わたしたちの健康はもっと複雑な基礎のうえに成り立っているようなのである。
先に述べたように、わたしたちの体内や体表面には驚くほどの微生物が棲息している。ならば、それらの微生物はそれぞれの場所でひとつの「生態系」を形成しているといえるだろう。そして、マイクロバイオームの研究の進展とともに、じつはそうした生態系のバランスが崩れることこそが、病気や不健康になることと強く関係しているのではないか、とそう考えられるようになってきたのである。
その典型例としてしばしば引き合いに出されるのが、わたしたちの胃のなかに棲息するピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)だ。ピロリ菌はこれまで、胃潰瘍や胃がんの発症リスクを高めるものとして、いわば悪者扱いされてきた細菌である。しかし、抗生物質の過剰使用などによって、多くの人の胃からピロリ菌が駆逐されるに至った現在、その不在がまた別の問題を生じさせている。というのも、じつはピロリ菌は胃食道逆流症などの発症リスクを低減させもするので、それが胃からいなくなったことによって、わたしたちは新たな疾患に頻繁に悩まされるようになったからである。
そのように、「微生物と人体は多様で複雑なやりとり」をしており、「微生物の生態系は、ヒトの行動に明確な影響を及ぼすことがわかっている」。つまり、微生物と健康に関するわたしたちの見方はたしかに変化していて、「前世紀にはひとつの病原体と考えられていたものが、今ではもっと複雑なシステムの一部と見なされつつあるのだ」。
ところで、マイクロバイオームの研究でもうひとつ興味深いのは、そもそもその研究がいかにして可能になったかという点であろう。顕微鏡による観察や平板培養では、わたしたちの内部や表面、周囲にいる微生物はほとんど確認できなかった。それらの存在が明らかになったのは、ここ十数年ほどの技術革新によって、それらのDNA配列を効率的に決定できるようになったからである。
とりわけ「次世代シークエンシング」と呼ばれる新手法の登場以降、ヒトの体や周囲における多種多様な微生物(の遺伝子)を検出・同定する力が飛躍的に向上した。ここ最近になってマイクロバイオーム研究が活発になったのも、そうした技術革新を背景にしてのことなのである(ちなみに、以上のような研究の流れもあって、「(ヒト)マイクロバイオーム」という言葉は、ヒトの体内にいる微生物すべてのゲノムを表すこともある)。本書ではその点についても詳しく書かれているので、該当箇所をぜひ参考にしてほしいと思う。
ほかにも本書では、「微生物」や「生命」の定義の話から始まり、膣とペニスにいる微生物集団(「膣オーム」と「ペニスオーム」)の違い、そしてマイクロバイオームと肥満や精神疾患との関係まで、興味深いトピックが続いている。著者のふたりはアメリカ自然史博物館の学芸員で、当館でマイクロバイオームの企画展示(「The Secret World Inside You」)を行った人たちである。それを反映してか、本書の構成は順序よく進む形になっており、またその内容も終始わかりやすい言葉で書かれている。率直に言って、とびぬけて刺激的なオリジナル・トピックが開陳されているわけではないが、しかし本書を読めば、マイクロバイオーム研究の展開と全体像を見渡すことができるはずだ。
いうなれば本書は、読み物として楽しみながら学べる、マイクロバイオームの概論書である。おもしろい類書もたくさん登場しているが、本書とともに読み進めれば、それらをさらによく理解することもできるだろう。
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