大崎善生は大好きな作家の一人である。もちろん最初の一冊はあの『聖の青春』で、いきなりファンになってしまった。以後、著作のほとんどを読んでいる。どの本も面白いのだが、なかでも、稀代のSM作家・団鬼六を描いた『赦す人』などは、誰にでも勧めたくなる出色のノンフィクションだ。
いちばん好きな作品は、短編集に収められた『優しい子よ』である。重い病に冒された子どもとの交流に題材をとった私小説は、大崎の作品に限らず、これまでに読んだ本の中で最高に泣けた本である。いや、である、ではなくて、今や過去形だ。『いつかの夏』がいちばん泣けた本の座を奪ったのである。何度も何度も嗚咽をこらえられないほど泣いたのは、この本が初めてだ。
2007年におきた『名古屋闇サイト殺人事件』は、ネットで知り合った見知らぬ同士がおこした事件であったこと、まったく面識のない罪なき女性が帰宅途中で犠牲者になったこと、そして、その殺人方法があまりに残虐であったこと、などから世間を震撼させた。犯罪の特殊性から、永山基準を満たさないにもかかわらず死刑の判決が下されたことを覚えておられる方もおられるだろう。
その事件の全容を描いた本である。という常套句を使いたいところだが、この本は少し違う。犯罪そのものについての記述は全体の半分あるかないかだ。考えてみれば当然かもしれない。ネットの闇サイトで知り合った三人の犯人が顔をあわせて、わずか4日の間に殺人事件をおこしてしまったのだから。それも、行き当たりばったりに。
前半では、被害者である磯谷利恵さんの生い立ちが丹念に綴られる。一歳の時に父親を急性骨髄性白血病で亡くした利恵さんは、母親の富美子さんと二人で生きてきた。父親がいないから、と言われたりしないように、というお母さんの育て方が良かったのだろう、よく気の利く賢い少女であった。大学には少しなじめず、ひきこもったような時もあったけれど、真面目にしっかり働く気丈夫な大人の女性になった。囲碁カフェで知り合った、数学者をめざすちょっと変わった大学院生の恋人もできた。運悪く犯罪の犠牲者にならなければ、皆に知られることもなかったはずの、ごく普通の、いや、とても素敵な女性である。
最初は取材を拒否しておられた富美子さんである。母一人子一人で育て上げた利恵さんのことを思い出しながら大崎に詳しく話す気持ちはどんなだったろう。しかし、正直なところ、読みながら、どうして生い立ちがこれほど詳しく描かれているのかがよくわからなかった。いってみれば、どこにでもあるような話なのである。しかし、そこで紹介される小さなエピソードの数々が、本の後半、事件における利恵さんの行動や裁判の経過が語られる段において重要な意味を持ってくる。
まったく無計画に行われた犯行は、非情にして凄惨だ。車の中で頸を締められ、それでも息の根が止まらないので、コンクリートを割るような大型のハンマーで20発も30発も頭部を殴られている。恐ろしいことに、それだけの間、死ねなかったということだ。そして、最後はゴミでも捨てるように遺棄された。あまりにむごい。
しかし、利恵さんは、絶望的な状態の中にありながら、猥褻な行為をおこなおうとする犯人をはねつけた。いつか母親に家を買うためであろう、800万円の預金があった。そのキャッシュカードの番号を、殺すと脅しをかけて執拗に聞き出そうとする犯人たち。必死に抵抗するが、最後には『2960』と伝えてしまう。裁判でも証言されたその暗証番号の意味を知った時、泣かずにいられる読者などいないはずだ。
強姦を未遂で終わらせただけでなく、最終的にはかなわなかったとはいえ、生きるために精一杯闘った。新聞報道などで、その勇気ある反抗を「命乞い」と書かれたことに母の富美子さんは憤る。犯人に対する態度は、命乞いなどではなく、まごうことなき闘いであった。
我が子が殺められたことを知らされた時の富美子さんの状況も詳しく書かれている。しかし、その気持ちは想像すらつかない。追い打ちをかけるように、被害者遺族の考えを理解しない無神経な報道が過熱する。そこで、富美子さんはマスコミに手書きの文章をつきつける。
何の落ち度も、関係もない娘に対し、あれほどの異常な行為を行った人間の存在を、私は認めることはできません。
絶対に、絶対に、許しません。
この言葉を裏付けるように、死刑嘆願の署名活動を開始する。そして、33万人以上の署名が集まった。証拠としては採用されなかったが、裁判官の心証を動かすには十分すぎる数だろう。それが、殺人被害者が一人であるにもかかわらず、長い間踏襲されてきた永山基準が適用されずに、三人の犯人のうち二人に死刑が下されるという一審の判決につながった。
本の後半、裁判の過程や富美子さんの回想を読んでいると、生まれた時から31歳になるまでの利恵さんのことをよく知っていたかのような錯覚に陥ってしまう。そして、前半部分に書かれていたいくつものエピソードがフラッシュバックのように蘇り、それぞれに涙がこぼれてしまう。キャッシュカードの番号がその最たるものである。こうしてレビューを書いている時でさえ、涙ぐんでしまう。
大崎は最後に記す。
書かれたくないであろう人の人生を書いてしまったことに、ひきつるような後悔の念がなくはない。しかしそれでもやはり磯谷利恵さんの人生は書き残しておくべき意義のあるものだという強い思いは変わらない。富美子さんは私よりも数倍強く、同じ思いなのではないかと思う。
このいつまでも心に深く残る本を読み終わった今、まったく同じように思う。そして「生まれ変わるとしたら、空とかになりたい」と語っていた利恵さんも、天国で同じ思いを抱いておられることと願いたい。合掌。
将棋好きのSM作家・団鬼六の晩年によりそい、その人柄を描ききった快作。以前にレビューしています。自己評価ではベストテンにはいるレビューなので、ぜひ読んでみてください。
短編集です。表題作『優しい子よ』には感涙にむせぶはず。