英語教育の早期化が加速している。次期学習指導要領からは、小学校5年生から英語は正式科目となり、小学校3年生から英語に親しむ授業がはじまる。そして、歩調を合わせるように、親の英語熱が加速している。
小学校の英語必修化について、2006年には52%の親が反対だったが、2013年には賛成が59%というアンケート結果が出ている。また、大学入試でも「読む・書く・聞く・話す」の四技能を評価する改革が進められ、早期化への拍車をかけている。
一昔前までは、義務教育前の英語学習は裕福な家庭や教育ママの贅沢だったが、今ではグローバル化への不安と機会を煽り立てられ、冷静な判断をすることもなく、我先にと我が子を母国語を覚える前から英語に触れさせ、英語教室への送り迎いをし、英語教育に熱心な小学校やインターナショナル・スクールへの入学を希望する。
その背景にあるのは、英語は早く学んだほうがいい、ということだ。しかし、そもそも「英語学習の開始は早いにこしたことはない」とは誰が言い出したことなのだろうか。都合のよい調査結果やエビデンスが氾濫しているが、いったい真実はどこにあるのだろうか。ほかにも英語教育で盲目的に信じられていることがある。
英語に接する時間は長いにこしたことはない。
英語は英語で教えるのがもっともよい。
理想的な英語教師は英語を母語とする話者である。
英語以外の言語の仕様は英語の水準を低下させる。
学校教育の現場、街の英会話教室、文部科学省の文章、街場の教育ママの会話などで、日本でも常識のように語られている信条の起源は、1961年にウガンダのマケレレで開催された「第2言語としての英語教育」についてのブリテン連邦会議の報告書である。世界中で実践されていた、草の根的な英語教育の経験から抽出された「前理論的なもの」であった。しかし、国際的な会議でお墨付きが与えられることで、英語教育の普及に決定的な役割を果たした。
信条が科学的にまたは学習理論として正しいか正しくないかは、議論が絶えることはないだろうが、英語の早期教育を普及させることに一役買っていることは間違いない。そして、その背景には、ある島国の片田舎の言語だった英語が世界を席巻するに至った1500年ものストーリーがある。
後に英語と称されることになる言語は、5世紀に海を超えてやってきたゲルマン人の戦士によってイングランドにもたらされた。中世、イングランドは隣人であるスコットランド、ウェールズ、海を超えたアイルランド島を侵略し支配した。そして、中世の長い期間をかけて、英語は普及した。その後、グレート・ブリテン帝国は北米とカリブ海に領土を広げ、インドやアフリカにも手を伸ばし、植民地とした。さらには、法律上は支配されていないが、経済的・文化的に支配されたエリアでも、英語は広がっていった。
世界中に拡散する英語の広がりは中核の円、外郭の円、膨張する円に分類しモデル化されている。中核の円は、イングランド、アメリカ、オーストラリアなどの母語としての英語を話している人々である。英語話者共同体がそのまま移植されたといえる。外郭の円は、いわゆる植民地化された国々であり、現在のコモンウェルスにあたる。ここにアメリカの植民地主義の結果も加わり、主に大英帝国とアメリカのアジア、アフリカの旧植民地からなる。これらの地域では帝国支配の言語として英語は押し付けられ、教育システムとして英語が普及した。
3つ目は膨張する円である。ここでの英語は「外国語としての英語」となる。英語がある程度の権力と同等視され、政治や経済の権力を入手するためには英語の熟達が要求される「外郭の円」に対し、英語の知識は経済的な利益を提供するが、英語に熟達していなくとも権力を行使する妨げとはならないのが、「膨張する円」の特徴だ。英語は母国語でも公用語でもない日本、中国、ロシアなどはここに含まれている。
外郭の円、膨張する円では、帝国主義という「悪行」の一環で侵略や占領の過程で、英語教育が強制されて広がった面がある一方で、英語教育という「善行」として浸透していった側面に本書では特に着目している。英語が文明化の使命を担う言語、文明の媒体となる言語、教養と出世につながる言語との喧伝がなされ、これらになびいた人々は「英語の帝国」のあちこちで多く出た。その最大の協力者は親であり、本書で章ごとに紹介されるスコットランド、アイルランド、インド、そして日本でも変わらないパターンである。(蛇足になるが、日本では森有礼の「日本語廃止=英語採用」論の再検討については読み応えがある。)
親がこの将来をおもんぱかり、英語が貧困の打開、子供の出世や生存競争での勝利、商売での成功に結びついていると考えてきた。そして、ふつうの人の代表である親が、進歩、近代化、ひいては国際言語としての英語にひかれていき、子に英語学習を促し、教師たちもこれを助けた。英語化を進める側からは、こういった教師や親の迎合は「飛んで火に入る夏の虫」であった。
しかし、私たちは疑いなく英語という言語を学んでいるが、英語はこの先も安泰なのだろうか?アメリカの覇権の終焉、中国の台頭、そして機械翻訳機の実用化により、英語の命運も直に尽きるかもしれない。そのときには、この幸せを願う親が、他の言語教育に乗り換えるだけなのかもしれない。
「英語の帝国」の歴史を知ったからといって、子や孫が、さらに自分がうまく英語を話せるようにならないだろうし、時間の無駄になるのかもしれない。しあかし、英語という道具を世界中に普及させた思惑とそれを実現させた壮大な歴史を学ぶことは、世代を超えて物事を受け継いでいく長期視点を得られる、またとない本だ。
土屋のレビュー。 「役立たずな方向」に、全力で、一生懸命、真剣に突き進む本。