世界全体会議とのタイトルだが、本書には新興国の経済減速もトランプ現象も日銀の金融政策の枠組み変更も出てこない。
三部構成で第一部が「男と女について」、第二部「日本人について」、第三部「人生について」。計30のテーマについて、奥が深そうな議論が展開されていそうな見出しが並ぶが、話すのが脚本家の宮藤官九郎とみうらじゅんの二人。期待を裏切らない。
例えば、「男と女について」。冒頭の「なぜ男と女はわかりあえないのか?」、「男と女のあいだに友情は成立するのか?」あたりは普遍的なテーマだが、「モテる男はどんなセリフで美人を口説いているのか?」から世俗感が倍々に増してくる。
女性を口説くには「ロマンの押し売りも必要」との話から男女間ではロマンとオマンの交換劇が繰り広げられていると盛り上がる二人。「オマンが欲しいならロマンをちょうだい」って。読んでるこちらが赤面する。居酒屋トークにしか思えないが、この二人ノンアルコールでまじめに語り合っている。
このテーマはまだ堅い方で、夜の営みの最中になぜ笑ってはいけないのか、男のシンボルは大きい方が良いのかなどについてまじめに議論される。多くのビジネスマンにとって一見、役に立たない話題ばかりだ。
だが、あくまでも「一見」である。くだらないと切り捨てるのは簡単だが、これらは人間が幸せになる重要なテーマだったりする。大人になって気づいたが、偏差値が高いより、モテたり友達が多かったり、営みの所作をしっていた方が幸せだったりする。
とはいえ、著者近影が歌舞伎町のホストみたいな人が書いた「モテ本」に教えを請いたくないし、全くヒントにならない。中学生あたりから、拗らせ続けてそうな宮藤・みうらの二人の会話にこそ、我ら非モテが明日を頑張れる活力が眠っているのだ。
もう枯れ始めた人へのヒントもある。みうらが指摘するように、スマホと自らの男性器を握りしめるのを放棄したら、人生はもはや終盤だ。第三部には「なぜ人はふと寂しくなる瞬間があるのか?」と不惑が射程に入った私も共感してしまうテーマがある。
みうらは寂しさに打ち勝つ方法として、「変態」を挙げる。変態と言っても鞭で打ったり、縛ったりではない。ましてや尿を飲んだりでもない。言葉の通り、さなぎが幼虫になるような変態である。
宮藤にこう勧める。
もし仮に宮藤さんが今みたいな恰好とは全然違う、70年代のエルトン・ジョンみたいなファッションを努めてしたとするじゃない?すると当然、みんな「どうした、アイツ?」って言うでしょ。だけど宮藤さん自身はその瞬間、寂しさを忘れることができると思うんだよね。
宮藤官九郎のエルトン・ジョンは嫌だけど、ちょっぴりわかる。
もちろん周囲の反応もあるんだけど、以前とはすっかり変わってしまった新しい己れに対して、驚きと同時に楽しさを感じてる自分にも気づくと思うんだ。若い頃の変態は、덀目立ちたがり덁とかいってバカにされるけど、寂しさに抗うために変化を選んだ年寄りは、덀正しき変態덁って呼んでいいんじゃないかな。
いい。なりたい。今やったら、イタい奴だけど。シニアになって、正しき変態になりたい。エルトン・ジョンでもいい。
ふざけているのかと苦情が聞こえてきそうだが、この本のレビューとしては腐心して、まじめに描いたつもりである。テーマも公開に耐えうるぎりぎりのラインを選んでいる。
そんなに酷いのがあるのかと聞かれそうだが、酷い。例えば、「男はどうやって枯れていくのか?」の最初のみうらの会話の振りは「宮藤さん、最近オナニーの調子はどう?」である。「まあ、普通に(笑)」と答える宮藤に、みうらが「この年齢になるまで本気でやりつづけてきたことって言ったら、やっぱコレは外せないでしょう」とまた振り、何事もなく進む。確かに外せない。外したくない。継続は力である。
普段あえて他人にいわないが、言われてみればその通りだなと頷くことに満ちている。茶化しながらも、真実を突いている。そんな本である。
ここまで書いて「前にこの本を読んでいればなー」という出来事を思い出した。仕事柄、エライ人と飲みに行く機会があるが、以前、壮大な事業計画を語られた後に下ネタをひたすら聞かされたこともあった。縦横無尽の下ネタに、対処できず、こちらは顔が引きつりっぱなしであった。男女のみならず、世の中はロマンとオマンでできているのかもしれない。
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