昭和34年8月、京都市北部の山中。かねてから催していた便意が高まり、山道を急ぐ男の姿があった。彼こそは本書の著者・山本素石(1919-1988年)。稀代の渓流釣り師として知られ、数多くのエッセイや紀行文を遺した。その素石のもう一つの功績は、ツチノコ探索隊ノータリンクラブの会長として世間にツチノコの存在を知らしめたことである。そのきっかけとなる瞬間が、今まさに訪れようとしていた。
突如、右手の山側から妙なものがとんできた。(中略)ヒューッといったか、チィーッといったか、そのどちらともつかぬ音を立てて、下生えの藪の中からゆるい放物線をえがいてとびかかってきたのは、一見したところ、ビール瓶のような格好をしたヘビであった。
明らかに首か肩を狙って飛んできた奇妙な生物は、素石にすんでのところで身をかわされて、地面に落ちた。その姿を見て、素石は息を呑む。ヘビにしてはあまりにも短すぎるし、太すぎる。薄べったくてウロコは大きく、ネズミのような尻尾がチョロリと出ている。その尻尾が、まるでガラガラヘビの攻撃体勢のようにピリピリと痙攣しているのである。急に怖くなった素石は、一目散に逃げだした。
それを北山に住む年寄りに話したところ、
そいつはツチノコちゅうてナ、昔はこの辺の山のあちこちにいたもんや。崖からコロコローッところがってきて、人でも犬でも、そいつにあたると死ぬちゅうてこわがったもんでナ。
昔はあちこちにいたんだ、ツチノコ!
本書は、「見た」という人がいれば聴き取りに行き、出そうなところにわなをしかけ、おびき出すためのたき火で眉毛が燃え、愛想を尽かした奥さんに逃げられる――本気でツチノコを探すことに情熱を傾けた男たちの夢とロマンの物語である。
いつしか素石のまわりには、探索志望者たちが集まり始める。こうして
・香典はツチノコにあたって討死したときに限る
・御祝は女房に逃げられたときに限る
・いったん入会したら死ぬまでやめてはいけない
等々、新選組もびっくりの鉄の掟で結ばれた「ノータリンクラブ」は誕生する。顧問は、日本の霊長類研究の祖・京都大学の今西錦司である(本書で素石は今西のことを「あのおっさん」と呼んでいる)。
しかし、探索は難航する。なぜならツチノコは「見たことを話しただけで祟られる」と畏れられていたからだ。
たとえば大阪万博用の土取り現場で、ブルドーザーに轢かれてスルメのようにのされてしまったツチノコがいた。まだ寒かったので動きが鈍かったのだろう、気の毒に。そして、ひき逃げした不動産会社は倒産し、社員はみな蒸発してしまったという。
他にも「ツチノコを新聞で紹介した支局長が交通事故にあった」「クラブのメンバーが本当に奥さんに逃げられた」等々、「祟り」の実例はいくつも紹介されている。(う、この本のレビュー書いて大丈夫か、心配になってきた……。)
ところがどっこい、このメンバー、たちまち複数の女性に追いかけられて「一人に絞れず独身を通している」ほどのモテっぷりだそうだ。(よし、やっぱレビュー書こう。)
ちなみに「ツチノコ」の名は藁を打つ農具「槌の子」に由来すると言われているが、コロリン(広島)、バチヘビ(秋田)、カメノコ(新潟・群馬)、タワラヘビ(熊本・宮崎・鹿児島)、ゴハッスン(滋賀)などなど、地方によって呼び名はさまざま、と調査で判明する。なお、性質はほぼ共通していて「人や獲物を襲うときは体を尺取り虫のように縮めて飛びかかる」「ころがる」「平坦地では棒を押すように直進する」そうだ。
さて、素石らの地道な活動によってツチノコ探索の夢は世間に知られることとなり、熱心な西武百貨店の社員の働きによって、懸賞金の提供を受けるに至る。西武の社紋入りツチノコ手配書に、その後訪れるバブル期日本を牽引した西武グループの器の大きさを見せつけられた気がするのは、私だけだろうか。
こうしてついにノータリンクラブは、田辺聖子の新聞連載小説にまで登場。その結果、「ツチノコをしばらく飼っていた」「死体を拾った」「焼いて食べた」などなど、信憑性の高い情報が次々に寄せられるようになるのである。
だが、10年以上にわたって続けられた探索は、伝説の詐欺師の登場によって少し切ない幕切れを迎える。本書のタイトル『逃げろツチノコ』は、素石のツチノコへの深い愛情から生まれたものだったのだ。
ところで本書、冒頭には田辺聖子が寄稿して「ヨホホーイ」と叫んでおり、解説は三上丈晴・月刊「ムー」編集長!という豪華ぶりなのだが、私がぶっ飛んだのは、カバーを外して裏を見たときである。そこにはさまざまなツチノコの姿が描かれ、最後にこんな一文が印刷されていた。
生きたツチノコの生態写真を撮った人に賞金10万円!
幻の怪蛇ツチノコは、すべての日本人にとっていつまでもロマンとして生きつづけてほしいものです。見つけても殺したり檻に入れたりしないでください。写真に収められた人には10万円の賞金を差し上げます。写真は編集部と有識者が鑑定し、賞金は最初の持参者に限ります。
山と溪谷社・ツチノコ係
つ、ツチノコ係があるのか、山と溪谷社?? 有識者って誰? それにしても10万円って安すぎないか?
ここで、はたと気が付いた。きっと、山と溪谷社・ツチノコ係は、ツチノコは「いる」と信じている。そして、高い懸賞金に群がるゲスどもよりも純粋に夢とロマンでツチノコを探してくれる人が現れるのを、期待しているのではないか? ――私は全身に湧き上がってくる感動を、禁じえなかった。
今も大の大人たちに夢とロマンを与えてくれる、ツチノコ。急に寒くなって、彼らはもう冬眠してしまったかもしれない。みなさんもぜひ本書を読んで発見の策を練りながら、共に来年の春を待とうじゃないか。
※画像提供:山と渓谷社
選りすぐり、素石のエッセイ集。
大人気!山溪黒本シリーズの元祖。土屋のレビューはこちら。
「現代版・遠野物語」と名高いベストセラー黒本。ツチノコも登場。レビューはこちら。
こちらも黒本新刊。
UMA探索の名著。
ツチノコの飼い方も載っている。レビューはこちら。