富山、岐阜、長野各県の県境付近に位置する黒部渓谷。登山愛好者には北アルプスの心臓部として知られている。著者によれば、黒部の源流は天候が崩れれば水位が一気に10m以上も上がり、また至るところで鉄砲水が出る。鉄砲水の勢いは凄まじく、突風を引き起こし、大木が40cmほどの木片に、ザクザクと粉砕される。もしこの増水や鉄砲水に飲み込まれれば、遺留品も遺体そのものも完全にどこかに消えてしまうのだという。また尾根ではときに秒速70mの突風で吹き荒れる。山小屋が土台ごと舞い上がって空中分解したことも再三あったそうだ。もしそんな天候に出くわせば、夏でも凍死することもある。
その一方で天気がよいときには、「高山植物が咲き乱れ、熊、カモシカ、兎、雷鳥などが遊び、黒部の清流には岩魚が群れている」天国のようなところだ。本書はそんな過酷で美しい黒部渓谷で昭和20年代から山小屋を経営してきた著者による回想録。黒部第四ダム建設以前、ルートも整備されていないかつての北アルプスの姿が活き活きと描かれる。
この本、実は1964年に発売され、その後1994年に復刊されたものの入手が難しくなり、近年は著者とその家族が経営する北アルプスの山小屋でしか入手ができなくなっていたもの。そして今年の2月下旬に2度めの復刊となったたとん、忽ちamazonの「登山・ハイキング」部門の第一位となり、今も独走中だ。「山小屋でしか買えなかった名著がついに!」という山好きたちの声が聞こえてくるようだが、この面白さを登山愛好家たちだけに独り占めさせるわけにはいかない。
何より終戦直後、黒部に跋扈していたという山賊たちの話が最高だ。戦後すぐに山小屋の権利を買い取った著者だが、その山小屋には山賊が居座っていた。黒部の山賊は、たくさんの手下を従えた前科30犯以上の強盗殺人犯であり、黒部渓谷一帯を荒らし回り、登山者や猟師から金品をや獲物を巻き上げ、黒部の行方不明者はすべて彼らに殺されたーー当時そんな噂が流れていたが、著者は何も知らない登山者のふりをして、自身が経営権を買い取った山小屋を訪れ、小屋主になりすました山賊と対峙するのだ。
壁にはモーゼル拳銃や猟銃、獣の皮、岩魚の燻製がかけてあり、特に不気味なのが兎丸ごとの燻製だったという。とはいえ山賊の頭目は物腰も柔らかく、山に白熊や大木ほどの大蛇がいた話、狸に化かされた話などを面白おかしく話すばかり。著者は短刀を忍ばせ、いざとなったら相手を刺す覚悟で山小屋で一晩明かしたが、結局何事もなく朝を迎える。本当は自分のものである山小屋の宿泊代を山賊に支払い(しかもなぜか値切る。すると山賊も「山を好きな者は助け合わなければいけない」と、値切りに応じるのがおかしい)、下山する。
ところが下山後、この話が漏れて新聞記事になってしまう。そのため富山、岐阜、長野の3県連合で武装して山狩りをするなどという話が出るのだが、どういうわけか、著者が一人で山賊と交渉しろ、ということになってしまうのだ。そして、実際に山賊と交渉をしたところ、これもなぜだか彼らの身元保証人になるような格好となり、結局、著者は山賊たちと親交を結び、協力して黒部の登山ルートと山小屋を支えるようになるのである。
山賊の頭目は、黒部の主と言われた名猟師、遠山品衛門の実子、富士弥。仲間はその従兄弟で岩魚釣りの天才・林平や、常人なら4日かかる山道を1日で歩いてしまう鬼窪、熊打ち名人の倉繁など、超人的な体力を持つ個性派ぞろい。彼らは凶悪な犯罪者などではない。黒部源流はもともと彼らの生活の場であったのだ。険しい高山地帯もそんな彼らのとっては庭のようなもので、熊を打ち、岩魚を釣り、ウサギやカモシカを捕らえる生活は、厳しくあると同時に実に豊かだ。
「山で餓死するなんてのはバカだ」
本書に記された山賊たちのこの言葉は、彼らの本心からの素朴な言葉なのだろう。ちなみに山賊たちの食事は、腸内のウ◯コごと煮込んだ熊肉の鍋に、熊の足の裏、皮をはいだウサギをまるごと入れた味噌汁(これは今度ウサギを入手したらぜひ作ってみたい)、岩魚の酢ヌタ(釣りたての生きている岩魚を竹筒に入れた酢の中に放り込む。これも今度岩魚釣りに行ったらやる)、カモシカの干しレバーなど。実に興味をそそられる。
サブタイトルに「アルプスの怪」とあるが、狸やカワウソに化かされる話や、かつて遭難したこの世ならぬ者たちの声のことなどが書かれた箇所も読みどころだ。なにしろ人は山で簡単に死ぬ。実直な著者が冷静かつ克明に記しているがゆえ(著者は航空エンジンのエンジニアだったのだ)、不思議なリアリティがある。死者たちとともに山をさまよい歩いた学生。山小屋で絶命後、毎年命日になると山小屋にやってきて、「ありがとうございました!」と言って去ってく若者、寝ている者の舌を抜いて殺すカワウソ(殺されるのはいやだが、北アルプスに今もカワウソがいる、と想像するだけで心が躍る)、土木工事の音を真似て擬音を出す狸の話など、山に張ったテントの中や山小屋で聞いたらさぞ、心に響くことだろう。
とにかく本書を読めば、ほとんどの人が、山に行きたくていてもたってもいられなくなるはず。ただし、北アルプスまで行った際、山でオーイ、オーイ、という声が聞こえても、決してオーイと返事をしないように(その訳を知りたい方は、ぜひ本書を買って読んでください)。
『定本 黒部の山賊』にも解説を寄せている高橋庄太郎による北アルプスガイド。読み物としても実に楽しめる一冊だ。