「将来の野外生態学を担う若者に刺激を与えるような楽しい本を提供する」ことを目的とする『フィールドの生物学』シリーズの最新作である。本書のタイトルにある竜宮城とは、ウミガメの回遊先の餌場のことだ。ウミガメの餌場が二つあるということが、なぜ驚くべきことなのか、そこからウミガメの生態の何が分かるというのか。本書では、著者が大変な苦労の末にかき集めた豊富なデータとともに、ウミガメの回遊行動を軸にその真の姿が明らかにされていく。
本書では、著者の研究者人生の苦楽もありのままに描かれており、研究生活の楽しさ、研究者を取り巻く環境の過酷さをリアルに感じることができるはずだ。大学院博士後期課程を終えて10年以上定職に就くことができていない著者の状況からも分かるように、日本の生態学研究者を取り巻く環境は決して良好とはいえない。著者はそんな状況を愚痴るわけでもなく、資金不足がもたらす困難もヒョウヒョウと乗り越えて、ハードな研究生活の中にも喜びを見出していく。
北海道大学で畜産学を学んでいた著者は大学四年のとき将来に悩みながらも、「人間が全てを制御している家畜・家禽の研究よりも、未知の部分が多い、何も分かっていない野生動物の生態を追った方が面白いんじゃないか」と考えた。そして、ふと手にした『竜馬がゆく』に影響されて研究のフィールドを海に定め、小学生時代に飼っていたという理由でカメを研究対象に決めた。行き当たりばったりの選択のようにも思えるが、未知の分野へ挑戦するためには、自分の心のわずかな引っ掛かりに耳を傾け、一歩を踏み出すことも重要なのだろう。
もちろん、思いつきだけで独自の研究テーマが手に入るわけではない。京都大学大学院農学研究科海洋生物環境学分野の研究室に所属してからは、まず先輩たちから与えられたテーマに取り組み知見を深めながら、自分だけのオリジナルな道を模索していく。
自然の生き物を扱う研究ならではの苦労がある。一億年を超える進化史をもつウミガメが産卵する場所には、そこで生活を営む地元の人々がいる。ウミガメを保護しようとする人、観光資源としようとする人がいる。そのような人々と協調しなければ、ウミガメの調査はままならない。本書で紹介される日本各地でのウミガメ研究活動も、多くのボランティアによるサポートがなければ成り立たなかっただろう。ウミガメの研究活動には、研究者だけではない多様な人々と円滑な人間関係を構築するコミュニケーション能力も求められるのである。さらには、フィールドワークで得られたサンプルから適切にデータを抽出し、適切な分析を施し、精緻な理論へと昇華しなければならないのだから、本当に多くのスキルが必要だ。
あるとき著者は、ビワコオオナマズが琵琶湖の北湖と南湖をどのように回遊しているかを調べている先輩の手法を、ウミガメの餌場判別に応用することを思いつく。その手法とは安定同位体を用いた食性解析である。研究対象となる生物組織の同位体(陽子数は等しいが中性子数は異なる原子)の比率を調べることで、どのような餌を食べているかを推定するのだ。例えば、A地点の餌の炭素同位対比がB地点の餌の同位対比より小さければ、A地点で摂餌する生物の同位対比はB地点で摂餌するそれよりも低くなるので、対象生物の同位対比を調べればどこで摂餌しているかを推定できるのである。
和歌山県千里浜でアカウミガメの卵の同位対比を調べると、明らかに炭素・窒素同位対比の異なる2つの群に分けることができた。アカウミガメの竜宮城は2つあったのだ。さらに、「同位対比が小さい個体は体サイズが小さく、高い個体は体サイズが大き」いということまで分かった。驚くべき発見は、さらなる驚くべき疑問をもたらす。なぜアカウミガメは2つの異なる餌場を利用する群に分けられるのか、そこにはどのような進化的利点があるのか、餌場の違いはどのようなメカニズムで個体サイズに影響を与えているのか、餌場の違いをもたらしているのは遺伝なのか環境なのか。本書でこれらの謎の全てに答えが出されているわけではないが、「場外ホームラン」級の発見を契機に研究が加速し、徐々に新たな事実が明らかになっていく様子には興奮すらおぼえる。
祖父から研究の意義について問われた著者は、研究に向き合う思いを以下のように語っている。
何の役にも立たないかもしれない。何かの役にたとうと思ってやっている訳ではないから。何か面白そうだからやっている、というのが実情だ。学問って本来そういうものだろう。(中略)またこうして本を出版することで、読者の知的娯楽には貢献しているのかもしれない。
本書が多くの読者の知的娯楽に貢献することは間違いない。このような役に立たない研究が、それを伝える面白い本が、消えてしまわないよう願いたい。
『竜宮城は二つあった』の著者も一時そのもとで研究活動を行っていたウナギ界の大御所による一冊。ウナギ大回遊の謎を追い求める一大冒険活劇である本書は、興奮せずにはいららないはずだ。レビューはこちら。
みんな大好き『フィールドの生物学』シリーズには、HONZレビュアーとなった堀川大樹の本もある。レビューはこちら。刊行当時のインタビューはこちら。