私は、大塚ひかりさんには恩を受けている。大塚さんの仕事の中に、ひとりで全訳をした『源氏物語』(ちくま文庫)があるのだが、その本のおかげで私は初めて『源氏物語』の全巻を読み通すことができたのだ。
それより前には、いろんな作家の現代語訳で挑戦したのに、ついにすべてを読み通すことができなかった。谷崎潤一郎訳では、全10巻のうち第1巻(「若紫」まで)しか読めなかったし、その後、円地文子訳でも、瀬戸内寂聴訳でも読もうとしたのだが、半分くらいまでで挫折してしまっていたのだ。『源氏物語』を通読するのは私には無理なのかと思ったくらいだ。
ところが、年を取って図々しくなっている私は、よくわかっているような顔をして『源氏物語』について、解説するようにしゃべったりしていた。あの物語の中のヒロインたち何人かを題材にして大いにパロディ化してみた『読み違え源氏物語』(文藝春秋)という短編集まで出しているのである。ある種の人が、清水義範は『源氏物語』をよく知っている、と勘違いするのも無理はない。2008年の『源氏物語』千年紀の時には、テレビやラジオにいくつも出演して、『源氏』について語っているのだ。本当は読み通していないのに。
読み通していないとは言うものの、各種解説本は10冊以上読んでいるので、そうむちゃくちゃなことは言っていないと思うのだが、それにしても冷汗もののことをしたものである。
冷汗ものと言えば、あの頃、『源氏物語』の全訳の仕事をなさっている最中の大塚ひかりさんと、NHKのラジオ番組でお話をしたことがある。私はまだ大塚さんのことをあまり知らず、誰もが言うような『源氏』論を偉そうにしゃべっていた。今から1000年も前の日本に『源氏物語』があるということは、世界文学的に見てもすごいことなのであり、あの小説は日本の誇りなんです、とかなんとか。
その時のことを思い出してみると、大塚さんがちょっと首をかしげていたような気がするのだ。それだけじゃないのに、とか、わかっていないなあ、というような思いでいるのがほのかにうかがえた、ような気がする。で私は、あの時のことを思い出しては赤面するのである。現に今、全訳をしている人を相手に一般論を言っていたなんて、恥だったよなあ、と思ってしまう。
そして、それからすぐ大塚さんの全訳本が出始め、私はそれを読んでみたのだ。そうしたら、びっくりするほどよくわかる『源氏物語』だった。訳語が大胆なぐらいにすっきりはっきりしていて、パキパキと読めるのだ。
大野晋と丸谷才一が『源氏』について語りあう『光る源氏の物語』(中央公論社)という名著があるのだが、その中で二人は、この時登場人物は肉体関係を持ったのかどうか、ということをいちいち考えていく。
「ここは実事ありですね」
「ありです」
というやりとりがよく出てくるのだが、大塚さんの訳だと、「セックスしちゃった」となるのである。なんとまああっけらかんとわかりやすいのか、と驚く。
そして、訳文の合間合間に○ひというマークがあって、それは「ひかりナビ」という、大塚さんのつぶやき的解説なのである。それがとても面白い味を出している。つまり、名教授のちょっとあけすけな、ざっくばらんな解説的雑談をききながら、本文を理解していくという具合になっていて、わかりやすいのだ。
「ひかりナビ」で、当時はセックス政治の時代だから、ここでやっちゃうのよね、とか、これはほとんど強姦だけど、それが珍しいことではなかったんだよね、などと語られると、スコンと理解できるのだ。私はその雑談の面白さに引っぱられて、苦労せずに全巻を読み通すことができたのである。おかげで、「宇治十帖」というのは蛇足的な別物語なんじゃないだろうか、と予想していたのをまんまとくつがえされ、ここ、信じられないくらいよくできた名作じゃないか、という感想も持てたのである。
そんなわけで、大塚ひかり全訳『源氏物語』というのは読みやすい名訳なのだが、その名訳の所以は、大塚さんが古典を読む時に、現代人の視点を持っていることだと思う。常に、それは今の我々にしてみればどういうようなことなのか、という分析が入るのだ。それは、古典の中に現代を見るということであると同時に、現代の中に古典を見るということでもある。古典文学には今とはまるで違う昔のことが書いてあり、びっくりするばかりだ、という受け止め方はしないのだ。むしろ、それって今もあるじゃん、とか、要するに今のこういう問題と同じじゃん、と共感のツッコミを入れていくわけである。
三度の飯より古典を読むのが好きだったという大塚さんは、古典を過去のものとして読むのではなく、今とどこが違い、今とどこが同じなのかと考えて読むことができるのだ。つまり、古典から今を知るのである。
そういう大塚さんが書いた本書『本当はひどかった昔の日本』は、現代の日本の諸問題と思われていることに対して、いやいや、その問題は昔からありましたよ、古典文学にちゃんと書いてありますもの、ということを教えてくれる本である。今と昔とを、古典でつないでしまうという思考の盲点を衝くような仕事なのである。
現代に生きる私たちは、何かあるとついつい「時代が悪くなったなあ。昔の日本はこんなにひどくはなかったのに」というふうに考えがちである。「昔はよかった」という幻想を抱きがちなのだ。
たとえば兇悪な少年犯罪などがあれば、現代がこんなにもゆがんだ少年を生み出したのであり、昔は子供はこんなではなかった、と思ったり言ったりする。
たとえば親が子供を虐待して死に至らしめてしまうような事件がおこると、これこそ病める現代のおそろしい現象であり、昔はこんなひどいことはなかった、と考えてしまう。
ところが大塚さんはこの本の中で、昔の日本にもひどいことはあったし、ひょっとしたらもっと過激だったんですよ、ということを教えてくれる。だってほら、古典文学の中にこんなひどい話が書いてあるんですよ、と。
虐待も育児放棄も昔にもありましたと、『日本霊異記』等の内容を教えてくれて、その内容のひどさにびっくりさせてくれる。夜泣きがうるさいので子を捨てるとか、ストーカー事件とか、妊婦殺しなんてことまであったんですよと、心胆を寒くしてくれる。昔って、何でもありのこわい時代だったんですねえと思わせてくれる。「昔はよかった」なんて、もの知らずの寝言のようなものだとわからせてくれる。現代から古典を見、古典から現代を見る面白さがそこにはある。
そして、古典の内容があんまりひどいので、これに比べれば現代のほうがよくなっているかもなあと、プラスの感想がわいてくるのだ。それが、この本の喜ばしいところである。
時代が悪くなっていくばかりだなんて、そんなの嘘ですよ。いろんな面で、昔よりは今のほうが生きやすくなっているんですよ、と明るいほうへ思考を導いてくれるのだ。
捨て子がいっぱいいて、それが犬に喰い殺されることも珍しくなかったのが昔の日本なのだ。少なくとも今はそれよりはましな時代ではないか、と大塚さんは訴えてくる。
その立場で書いているからこそ、この本はどこかカラリとしていて明るいし、ひどい話を読んでいっても平静でいられる。古典の中のひどい話はひどすぎてどこかへ突き抜けていて、そうこわくないのだ。
そして、我々日本人はこういう古典を持っているんだなあという気がして、その豊かさに感心してしまうのだ。
今の日本はひたすら悪くなっていくばかりで、「昔はよかった」というのに対して、いやいやそんなことはありません、昔の日本もひどかったですよ、むしろ今はよくなっているかもしれませんよ、というのがこの本の表面上の主張である。そう言われて、ふと落ちつきを取り戻す読者もいるかもしれない。
しかし、ざっくばらんなひかりナビという雑談の名手の大塚さんは、昔の日本はひどかった、ということを強調したいのではないような気もする。こんなひどいことまで平気で呑み込んで書いている古典のすごさを伝えたいのではないかと思えるのだ。
この本を読んでいくうちに、古典にはそんなことまで書いてあるのかという気がして、古典文学のすごさをひしひしと感じてしまう。どうもこの本にはそういうしかけがあるのだ。
古典雑談の名人芸なのだもの、そのくらいの幅の広さはきっちりとかねそなえているのである。
その意味で、本書は日本文学へのオマージュなのでもある。
(平成28年6月、作家)