ベッキーや舛添要一前東京都知事をはじめ、謝罪のやり方を誤ったことで、奈落の底に追い込まれる例が後を絶たない。現代では謝罪の必要がないのに、第三者が謝罪を求め、そしてその人たちに向けて謝罪会見を開くというようなことが多くなっている。「世間をお騒がせして申し訳ございません」というのがその時に使われる常とう句であるが、世間は勝手に騒いでいるだけなのだから、それに対していちいち謝罪する必要はない。この本では謝罪は適切にすべきだが、不要な謝罪はすべきではないというスタンスで書かれている。
茶道、武道、剣道、柔道など数々の「道」があるように、謝罪にも「道」があるのではないか?と著者はいう。現代の日本では謝罪が本来の目的から逸脱し、様式美やなんらかのルーティーンのようになっている。謝罪は実際に被害を与えたことに対して行う行為だけではなく、とりあえずは「型」をつくるためにやるものになったのだ。
謝罪の会見には「型」が存在する。
・ うだつのあがらなそうなオッサンが4人ほど登場する。
・ 神妙な表情を浮かべる
・ 同タイミングで一斉に頭を下げる(時間は5~10秒)
・ このときハゲ頭がひとりいると尚良し
・ 司会者役は記者に対しとにかく丁寧に接し、謝罪者には冷淡にする。
これをやらずに大失敗したのがマクドナルドのサラ・カサノバ氏の会見である。
悪い会見のポイント
① 嘘をつく
② 開き直る
③ 他人のせいにする
④ 反省しているように見えない
⑤ (その資格がないのに)幸せそうに見える
⑥ 被害者ぶる
⑦ 「謝罪道」のテンプレートに反している
中国の食品業者が期限切れの肉を使っていたことが発覚した際、カサノバ氏は上記の悪い会見のポイントのうち③、④、⑥、⑦をみごとにやってのけた。仏頂面で会見に臨み、下請け会社がやったことで、私たちも被害者である。会社の品質管理には自信があるというような会見を開き、大ひんしゅくをかったのだ。企業の不祥事に対する会見というものには「型」や「様式美」があり、「反省している感じ」をいかに出すのかが重要なのである。その点でうまい謝罪会見として紹介されているのは山一證券の「号泣会見」である。謝罪道のカギは「実績」「見た目」「所作」がセットになっているのだ。
謝罪を要求する人たちは口をそろえて「責任者を出せ」という。現場レベルでいくら謝罪をしても全く納得をしなかったのに、責任者がでていったとたんに納得をするということも多い。金銭を要求するような悪質なクレーマーも、お金が取れないのならば、責任者に謝罪をさせたということを落としどころにする人が多いそうだ。謝罪を要求する→担当者が対応し謝罪→納得せず「責任者を出せ」と要求→責任者がでてきて謝罪。という一連の流れも一種の様式美となっている気がする。
もうひとつ謝罪では大事なことがある。怒られた際は、言い訳から入るのではなく、まず「ごめんなさい」から入ることだ。怒っている人がいた場合、重要なのは「怒っている」という事実である。それがいかに理不尽であっても、まずは相手の話を聞く姿勢をとる。話を聞いたうえで、その怒りが誤解に基づくものであれば、「それは誤解です」と伝える。自らに落ち度がある場合は「ごめんなさい」と頭を下げる。そこで、「ごめんなさい」を言わずに言い訳をすると、怒っている側は許せなくなるのだ。ただ世の中にはいくら謝罪をしても許されないということはあるので、そのときはあきらめるしかない。
この本にはこのほかにも様々な謝罪の事例が載っている。その中で謝罪のテクニックとして面白いと思ったのは「着いた瞬間、ハーハーゼーゼーしながら汗まみれになってると、相手は許してくれることが多い」というものだ。謝罪で大事なのは人の心をどうやって掴むかということである。土下座や頭を丸めるといった古典的な方法も、相手の心をつかむ上では役に立つのだ。謝ることは恥ではない。自分に非があるときはきちんと謝る。そこからコミュニケーションが生まれ、良好な関係ができることもあるだろう。謝罪は挽回のチャンスでもある。謝罪道を極めてこれからの世の中をうまく生きていこうではないか。