正倉院はシルクロードの終着点であると教わった記憶がある。「月の沙漠」の歌ではないが、シルクロードという言葉には、ラクダの隊商が列をなしてローマやペルシャから遥々と中国まで(さらには奈良の都まで)宝物を運んできたロマンチックなイメージがある。著者は、シルクロードの重要な中継地であったクロライナ王国のニチャと楼蘭、鳩摩羅什(有名な仏教の訳経者)の故郷クチャとキジル石窟、トルファン、サマルカンド、敦煌、ホータンなどのオアシス都市とシルクロード終点の国際都市長安を舞台に、それぞれの地域から出土した史料を綿密に考証してシルクロードの交易の実相を多数の図版とともに明らかにした。
シルクロードは実際の一本道ではなく、砂漠や山岳地帯をつらぬく、つねに変化する道筋のつらなりだった。乾燥した気候のおかげで多量の文書や遺物が残った。ヘディンやオーレル・スタインなどの探検家がこれらの文物を多数回収したが、中でも、敦煌・莫高窟(シルクロード史のタイムカプセル)の膨大な巻物を巡る物語はつとに有名である。
その後も発見が相次いだが、それらの史料を分析すると、ローマと漢のあいだには交流がほとんどなかったこと(考古学遺物や文書による証拠がない)、唐の軍隊が中央アジアに駐屯していた時期(安史の乱まで100年強)には貨幣・穀物・布地(麻と絹)という形の通貨がこの地域に大量に流れ込んで交易が盛んになったこと(商人による絹などの長距離交易ではなく唐政府による莫大な財政支出が交易の原因)、唐軍が撤退した後はかつてのように行商人による近隣の客を相手にした自給自足的な地元取引に戻っていったことなど、シルクロードの真実の物語が姿を現す。
正倉院の舶来の御物は、おそらく海路を経由して運ばれたものが大半であろう。「交易がさかんだったと信じて疑わない人たちは、もっと多くの証拠がまだ発掘されないまま地中に埋まっていると信じているのかもしれない。(中略)本書は現在のところ入手できる証拠を細かく、批判的な目で調査してきた。(中略)全体として、シルクロード交易は地域限定の小規模なものだったという結論が得られる」。
この結論は、実は、さほど目新しいものではなく、すでに歴史学では通説の域に達していたものである。それにも関わらず、ここまで丁寧に考古学遺物や文書を収集・分析して通説を実証したことには頭が下がる。
シルクロード交易で実際に取引された品物はほんの少量だった。しかし、難民をはじめとしてさまざまな背景の人々が移動するにつれ、最初は中国と南アジア(仏教など)、次いで中国とイラン(マニ教、東方教会、製紙技術など)とのあいだで広範囲にわたる東西の文化交流が起こった。この地域の宗教的な寛容性も文化交流に大いに貢献した。玄奘やソグド人の活躍は誰しも耳にしたことがあるだろう。
19世紀の後半、リヒトホーフェンが命名したシルクロードは、実は絹の道ではなく、移住する人々の手によって思想、技術、芸術的モチーフなど東西文化が伝播するスーパーハイウェイだったのである。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。