その存在は古代エジプトの世から知られていた。存在が知られる前からも、多くの人の命がそれによって奪われていたはずだ。ずっと名前はなかったが、ギリシア時代になってようやく、あの医聖ヒポクラテスによってつけられた。しかし、人々はその本質を見誤っていた。ありもしない『体液』の異常によるものであると思い込まされていたのだ。その実体が、細胞の異常な増殖による、と正しく理解されるのは一九世紀になってからのこと。ビスマルクの政敵でもあった異能の病理学者ルドルフ・ウィルヒョウの登場を待たねばならなかった。
20世紀にはいり、勇気ある医師たちは、どのようなものであるかの理解もなく、それに対する本格的な攻撃を開始する。ウィリアム・ハルステッドは文字通りメスを片手に切り込み、シドニー・ファーバーは化学療法剤という『毒』を駆使して立ち向かった。その闘いには相当な資金が必要であったが、慈善家のメアリ・ラスカーがその任にあたった。人類の叡智というのはすばらしい。人の命を奪い続ける怪物を、原因がわからなくとも、すこしは退治することができたのであるから。
一方で、攻撃だけでは十分でないこともわかってきた。それの原因はなにか、そして、どうすれば予防できるかが調べられ、最大の犯人としてタバコが指名手配された。いまや、先進国では禁煙が広くうけいれられるようになっているが、そこにいたるには、タバコ産業を相手にした気の遠くなるような闘いがあった。
そして、20世紀から21世紀にかけて、分子生物学の進歩は、その根本的な原因を明らかにすることに成功した。その結果は大きな驚きをもって迎えられた。異形の怪物の原因は、我々自身が有する内なる遺伝子の突然変異の蓄積によるものであったのだから。
その怪物の名は『がん』。
このようなあらすじを持つ本書『がん─4000年の歴史─』は、原著の副題A Biography of Cancerにもあるように、『がん』についての『伝記』ともいうべき本である。がんは、文字通り、不死の細胞から構成される『生命体』のようなものであるから、完全に死に絶えて世の中から消えてしまうなどという、誰もが望むような大団円を迎えることなどありえない。その意味で、この本は、より正しくは、がんについての半生記と呼ぶべきかもしれない。
かつて、天才科学者パウル・エールリヒは、『特異性』という概念を武器に、がん細胞だけを選択的に攻撃する『魔法の弾丸』を使うことができれば、がんを治療できるのではないかと夢想した。その着想から一世紀半。人類は、分子標的療法という『魔法の弾丸』を手に入れたかのように見える。敵の本態を見極めた上で、いよいよ新たな攻撃の時代にはいりつつある今、がんの伝記を読むには絶好のタイミングだ。
この本の原著を手にしたのはまったくの偶然であった。数年前、アメリカのアマゾンから、当時英語版しかなかったキンドルをとりよせた。さてどの書籍を買ったらいいのか。それどころか、どうやって買ったらいいのかすらわからない。好きな分野である科学ノンフィクションのお勧めリストをみると、ぶっちぎりの上位にこの本The Emperor of All Maladiesがあった。
電子図書購入の練習にと思って買ってみただけなのだが、読み始めてあまりの面白さに驚嘆した。断片的には知っていることもあったが、数多くのエピソードが、一本の大樹のようにみごとにまとめられていた。日常的に英語をつかう仕事とはいえ、英語の本を読むというのは、やはり骨がおれる。面白くなければなかなか進まない。しかし、この本はミステリーを読むかのように一気に読み終えることができた。
邦訳を待てずに、まわりにいる読みそうな人、読めそうな人に勧めつづけた。読んだ人はみな、すばらしい本だと大喜びしてくれた。ピュリッツァー賞を受賞したということを、誰もが十分納得できる力作である。著者のシッダールタ・ムカジーは、インド出身で、専門は腫瘍内科。スタンフォードからオックスフォードを経てハーバードからコロンビアという煌めくような医学畑でのキャリア。さらに、天才的ライターとしての資質。いやはや世の中には、銀の匙を何本もくわえて生まれてきたかのような、すさまじいまでの能力を持った人というのがいるものだ。
翻訳がでるのをいまかいまかと楽しみにしていた。その間に、縁あってノンフィクションおすすめグループHONZに参加することになった。HONZの代表である成毛眞にはじめて会った時にも、この本がどれほどおもしろいかを力説した。ノンフィクションが日本ではあまり売れないという話になった時、この本の邦訳がもし「売れないようでは、日本のノンフィクションもいよいよ……」と熱く語った。しかし、そのときの成毛の返事は「問題は翻訳者によって……」というクールなものであった。
こういう経緯があったので、この本の単行本が出版されたとき、解説の依頼をちょうだいして、どれだけ嬉しかったか、わかっていただけるかと思う。同時に、成毛の言葉が思い出されて、翻訳がまずかったらどうしようかという不安が脳裏をかすめた。しかし、うれしいことに、ゲラを読み始めてすぐ、まったくの杞憂であることがわかった。訳の正確さから、そうであろうかと確認したら、はたして翻訳の田中文は現役の医師にして翻訳家。またとない人物を得ていたことに胸をなでおろした。
キンドルで一気に読んだ時には気にもならなかったのだが、実際手に取ってみると大部な本である。がんの伝記という膨大な内容からいうと、これでも十分にコンパクトなのではあるが、上下二巻、本文だけで800ページ以上、というのはさすがに長い。その上、どうしても、病気や薬の名前、生命科学の専門用語、といった、普通の人には見慣れない言葉を避けては通れない。
しかし、長いし、知らない言葉が多いし、と尻込みしないでもらいたい。いちいち細かなことを気にせずとも、わくわくしながら読み進めることができるはずだ。その上、読み終わったら、がんというものはどのようなものなのか、がんというものに人類がどう挑んできたか、そして、その闘いはどうなっていくのか、ということが必ず理解できるように書かれている。このような、知的刺激を与えてくれるだけでなく、実際に役にたつノンフィクションが、わかりやすい日本語で読めるようになったのは、本当にすばらしいことだ。
単行本『病の皇帝「がん」に挑む』(文庫化にあたり『がん─4000年の歴史─』に改題)は、いろいろなメディアで書評にとりあげられるなど評判をとった。しかし、贅沢かもしれないが、ピュリッツァー賞を受賞したお膝元アメリカでの大評判に比べると、いささか物足りなさを感じてしまう。内容のすばらしさを考えると、医療関係者だけでなく、がんに興味のあるすべての人が手にとって読んでくれたとしても何ら不思議ではないはずの本なのだから。今回の文庫化を機に、より多くの人の手に渡り、一人でも多くの人が、がんについての正しい知識を身につけてくださればと、心から願っている。
がんの伝記、とはいうものの、がんが自らを物語るはずはないので、当然、がんに立ち向かい、闘った人たちの記録になっている。本書にはじつにたくさんの人たちが登場するのであるが、いちばんの主人公といえるのは、がんを薬剤で治療しうる、ということを最初に示し、現在もその名を冠した研究所がボストンのハーバード大学にあるシドニー・ファーバーだろう。
葉酸欠乏性貧血という、ビタミンの一種である葉酸の欠乏が原因となって発症する貧血がある。もちろん、この病気は葉酸の投与で治療することができる。同じ血液の疾患──といっても貧血では赤血球が減って白血病では白血球が増えるのだから正反対であるが──という理由で、ファーバーは、当時まったく不治であった小児白血病の患者に葉酸を投与する。治療のつもりで投与したのであるが、じっさいには白血病の進行を早めてしまった。いまでは考えられない冒険、というよりも暴挙である。ファーバーはひるまず、それでは、と、葉酸の機能を阻害する拮抗剤を投与し、ある程度の成果を収める。
葉酸拮抗薬だけでは長期間の寛解(白血病細胞が認められない状態)を得ることができなかったため、次々と薬剤が試され、最終的には、複数の薬剤を投与する多剤併用療法へとつながっていく。と書くと、そんなことあたりまえでしょう、と思われるかもしれない。しかし、それは、歴史を逆回しで眺めるから、そう見えるだけなのである。多剤併用療法は副作用も強いので、下手をすると患者を死なせてしまう。有効であるというエビデンスがない中、危険を承知で多剤併用療法にふみきった医師たちの勇気はいかほどのものであっただろうか。
残念ながら、葉酸の投与がそうであったように、これまでに試みられた治療法がすべて正しかったわけではない。乳がんの手術法を確立したハルステッドは、その切除領域をどんどん拡大すれば根治できると考え、弟子たちとともにその道を突き進んだ。また、乳がんなどの固形がんに強力な化学療法をおこない、副作用として生じる強烈な血液細胞産生の障害を造血幹細胞移植で補ってやる、という、概念としては正しそうな治療法も、一時期ではあるが積極的におこなわれた。しかし、これらの治療法は厳密な検討の結果、最終的に、正しくない、すなわち、患者に危険をもたらすにすぎない、ということが明らかにされてしまったのである。
いくつかの種類のがんに対して、という限定つきではあるが、がんの分子生物学的研究は、副作用が少なくて著効を示す分子標的療法をもたらした。その代表選手である、乳がんに対するハーセプチンと慢性骨髄性白血病に対するグリベックは、いずれもが年間数十億ドル以上を売り上げるブロックバスターだ。特異的な作用機序、そして何よりも現在の売上高、を考えると、いずれもが全力を傾けて開発された医薬品だと思われるだろう。しかし、現実は違う。いくつかの理由で、いずれの会社も、開発初期にはまったく乗り気ではなかったのだ。偏執的ともいえる信念を持った研究者がいたからこそ、薬剤として世に出ることができたにすぎないのである。
このようないくつかの例だけでも、がんとの闘いというものは、決してまっすぐな道を進んできたわけではないことをおわかりいただけるだろう。がんというのは、ほんとうに一筋縄ではいかないくせ者なのである。しかし、そのような紆余曲折を、勇気をもって着実に乗り越えてきた人たちがいたからこそ、人類はたくさんの優れた治療法を手に入れることができたのだ。
がんについての物語を読むとき、決して忘れてはならないことがある。それは、ほんとうの意味でがんと闘ったのは、医師たちではなく、意図せずに戦場に引き出されてしまった患者さんたちである、ということだ。がんの伝記には、医師だけでなく、がんに侵され、闘った人たちにも登場してもらわないとアンフェアというものだ。その視点から、著者のムカジーは、自分の受け持ち患者である白血病のカーラの治療経過を、がんの伝記と併走させていく。
登場するもう一人の患者、ファーバーの初期の患者であったリンパ腫の少年『ジミー』についての2つの奇跡は、それだけで一冊の本になってもおかしくないほどのおもしろさだ。ひとつは、最後の四割打者であるボストン・レッドソックスのテッド・ウィリアムズたちの活躍により、『ジミー基金』が爆発的な成功をおさめたこと。そして、もうひとつは、ジミーのその後。ノンフィクションの醍醐味がここにある、といっても過言ではない。
あたらしい治療法がどんどん開発されてきているとはいうものの、がんは、いまも先進国では死因の一位であり、そのために命を落とす人がたくさんいる。がんで亡くなった親戚や知り合いはいない、などという人はおられないだろう。そういった意味で、がんと無関係であるような人などいないのだ。そのせいもあってか、巷間、がんに関する数多くの書物があふれている。
なかには、どうしてこんな内容の本がベストセラーになるのだと首をかしげたくなる本もある。言い方は悪いが、ある意味では一般の人たちの無知につけこんでいるようなものだ。そのような本に書いてある内容がすべて誤っているとは言わない。しかし、この本で繰り返し説明されているように、がんは一つの疾患単位としてまとめられてはいるが、その種類や、できる臓器によって、原因、経過、そして、治療法の有無、など千差万別なのである。そこを十分に理解しておかないと、いざという時に判断を誤りかねない。
それぞれのがんに個性があることはわかっていたが、どのような個性があるのかまでは、よくわかっていなかった。しかし、ここ数年の間に、その個性の同定が猛烈なスピードで進んでいる。がんが成立するには、通常、がんの発症に関係する遺伝子の突然変異が複数個生じる必要がある。以前は、そのような遺伝子異常をひとつずつ解析するしか方法がなかったのだが、最近では、次世代シークエンサーという、DNAの塩基配列を効率よく決定する装置が開発され、網羅的な解析が可能になった。そして、がんの遺伝情報の総体(ゲノム)をしらべるために必要な経費がどんどん下がってきている。
国際がんゲノムコンソーシアムなどにより、大腸、肺、肝臓、乳腺、胃など、多くの臓器のがんゲノムが解析され、いろいろなことがわかってきた。我が国では、その一環として、肝臓がん300症例の全ゲノム解析がおこなわれ、遺伝子異常のパターンから、肝臓がんを六つの種類に分類できること、そして、それぞれの死亡率が大きく異なることなどが明らかにされた。
がんのゲノムを網羅的に解析することにより、個々のがんの個性、すなわち、がんの発症に重要な突然変異を決定することができるようになってきたのである。同時に、この本にも書かれているように、がんの原因となる突然変異によってもたらされる異常を狙い撃ちにする分子標的治療薬の開発が進み、すでに、約30種類の遺伝子異常に対して、50~60種類ほどの分子標的治療薬が使用可能になっている。両者を組み合わせることにより、まずはゲノム解析により、がんをがんたらしめている「ドライバー変異」と呼ばれる主要な遺伝子変異をあぶりだし、次いで、そこに照準を定めた分子標的治療薬を選んで使用する、という時代がやってきつつあるのだ。
がんは、その生物学的な特性から、完全に撲滅されるようなことは未来永劫にわたってありえない。その意味において、がんと人類の闘いの物語はいつまでたっても未完である。そのことは、この本が書かれた後のがん研究の進展からも見て取れる。先に述べたがんゲノムの解析と並んで、ここ数年の間に爆発的に進歩したのは、免疫チェックポイント阻害療法という、がんに対する新しい免疫療法だ。
がん細胞は遺伝子に突然変異を有しているので、ある意味では「非自己」の細胞になっている。したがって、潜在的には免疫反応によって異物として排除されうるものであり、以前から、がんに対する免疫反応が存在することは知られていた。
この考えに沿って、免疫能を賦活して、がんをやっつけようという免疫療法がいろいろと試されてきた。しかし、ある程度の効果が認められる場合はあったものの、抗がん剤による治療ほど有効なものは見出されなかった。こういった状況を一変させたのが、免疫チェックポイント阻害療法である。がんは、免疫系を抑制するようなブレーキを持っていて、免疫細胞からの攻撃をブロックしている。そのブレーキをうまく解除することにより、免疫細胞にがん細胞を攻撃できるようにしてやろう、という発想だ。その代表的な薬剤であるニボルマブ(商品名オプジーボ)を例にとって説明してみよう。
がん細胞はPD‐L1という分子を表面に発現しており、免疫細胞はそのPD‐L1と特異的に結合する分子であるPD‐1を発現している。そして、PD‐L1はPD‐1と結合することにより、免疫細胞が攻撃してこないようにブレーキをかけているのだ。ニボルマブは、PD‐L1とPD‐1の結合を阻害することにより、このブレーキを解除させて、免疫細胞のがん細胞に対する攻撃力を再獲得させる抗体医薬である。どの患者さんに効果があるかがわからない、価格が非常に高いなどといった問題は残されているものの、悪性黒色腫や非小細胞肺がんなどには特に効果が高く、中には末期患者の腫瘍が消失する例まであるという、がん治療の概念を変えてしまうほどのポテンシャルを秘めた画期的な治療法である。
ニボルマブのターゲットであるPD‐1は、京都大学医学研究科の本庶佑先生の研究室で研究されてきた分子である。私事であるが、20年以上前、PD‐1が発見された頃、本庶研究室に在籍していた。当時まったく機能のわからなかった分子が画期的な薬剤に育ったという事実を目の当たりにして、奇跡か魔法を見せつけられたような感動を禁じ得ない。
著者のムカジーは、「医学は物語るという行為から始まる」という考えから、がんについての見事な物語を書き上げた。がんを正しく知る、いわば、『がんリテラシー』を身につけるには、物語としてのがんを学ぶことから始めればよい。そう、この大いなる未完の物語を読むことこそが、がんを正しく理解するための第一歩になるはずだ。
2016年5月
この本の執筆後も、ムカジーは雑誌ニューヨーカーなどにキレのいいエッセイを発表し続けている。そして、この5月には『The Gene(遺伝子)』という、アリストテレスからダーウィン、メンデルに始まり、優生学やヒトゲノム解析の問題へと続く、次なる大作を上梓した。『がん─4000年の歴史─』と同じ田中文による邦訳が一日も早く出版されるのを心待ちにしている。これほど読む前から面白いに決まっている本はそうそうないはずだ。
(2013年8月刊の単行本収録の解説に加筆再録)