「メカ屋のための」とあるように、本書はエンジニアに向けた脳科学本である。
「なぜわざわざ特別にエンジニア向けに脳科学入門が書かれなくてはならないのか? 一般人向けに書けばいいではないか」と疑問を抱くかもしれないが、なるほどもっともな話ではある。
それはまず第一に、著者が東京大学工学部の機械系、情報理工学研究科、工学研究科で講義を受け持っている、機械系かつ生物学系の研究者であることに起因している。物理と工学が大好きで、それに反して生物に興味がない──むしろ嫌いな──エリート・エンジニアの卵らに生物よりの脳科学を教えなければならない著者がとった方法は、神経細胞が大脳にはいくつ、小脳にはいくつ、といった暗記科目的な形式ではなく、構造領域から機能領域へのアプローチ=リバースエンジニアリングを通して「脳って機能的にできてるんだなあ」と驚きを与える事だったのだ。
エンジニアは、どういうときに脳に感動を覚えるだろうか? 筆者の個人的な経験からすると、「へえー、脳は良くできているなぁ」と納得した瞬間である。チャールズ・ダーウィンによる進化論の考え方によれば、身体や脳のしくみは、神による創造物ではなく、進化のプロセスで得られた設計解である。その設計思想を明かそうとするプロセスならば、エンジニアの知的好奇心をくすぐれるだろう。
そもそもリバース・エンジニアリングというのは聞き慣れない言葉かもしれないが、本書から言葉をそのまま借りてくれば『機能領域から構造領域への順方向の作業が設計だとすれば、構造領域から機能領域を推測する作業がリバース・エンジニアリングである』ということになる。もう少し具体的にいえば、ある写真を見せた時に特定の神経細胞が必ず反応を起こす、大脳皮質では100億個の神経細胞がネットワークを形成している、と判明している脳のデータや仕組みから、それがどのようにして発生/成立しているのかを推測していく方法であるといえる。
どのように物を見て、情報が脳の中を伝わっていくのか? 身体への指令はどうやって出され、脳はどのように概念を形成するのか? 脳は非常に省エネだが、どのような設計ならばそれを可能にしえるのか? と問いかけながら、エンジニアらしくどうやったらその過程を別のもの(人工的な電気刺激とか)で置き換えることができるか? と合わせて考え、脳を設計論的な観点から解き明かしていくその過程は非エンジニアにとっても実にエキサイティングだ。
脳を工学的に理解する
欧米では工学部の花型はバイオ・メディカルエンジニアリング学科だというが(日本はそうでもないらしい)、工学技術を生物分野で幅広く応用するためには、何はともあれ「人間の脳」がどのようにして機能しているかを正確に知らなければならない。たとえば、「どうやって音を受容しているのか」がわかれば電気刺激によって難聴者へも音を届けることができる。そうした研究が進んだ結果生まれた現代の人工内耳は、健常者が聴神経30000本でやっている言語コミュニケーションを、22個の電極で達成してみせる優れものだ。
人間のパワーを増強し身体運用をサポートしてくれるロボットスーツは、皮膚表面から計測した筋電(筋肉が発生する生体信号)から関節の動きを予測してモータを動かすが、これも人体と脳の動きへの深い理解ができれなければ到底なしえない技術である。もちろんこうしたわかりやすい成果以外にも、実験のための道具も洗練されよれ大量のデータが得られた今、脳をまるで機械設計と同じように考えられることもできるようになっている。欧米に限らず日本でも工学と生物学の知識/融合はこれからの時代広く求められるものであることはもはやいうまでもないだろう。
一般向けよりむずかしいけど、情報が網羅的に詰まった一冊
本書は『工学部の学生が、初めて脳科学を学ぶ時に手に取るべき本を目指した。』と著者自身が書いているように、一般向けノンフィクションよりは遥かに詳しく、敬遠されがちな数式も適度にまじえながら、工学と生物学の間に存在している溝を埋める形で脳の仕組みを網羅している。
話題は脳科学と工学が融合した人工内耳の話からはじまり、神経細胞とは何か、我々は身体をどう動かしているのか、どのようにして概念を形成していくのか、最終的には芸術分野が我々の脳をいかにしてハックしているのかまで解説してみせる。それが暗記科目の教科書並に退屈なのであればたいしたことはないが、最初に書いたように「我々の普段の活動をどんな機能が可能にしているのか」という驚きをベースにして伝えてくれるのでおもしろく読めるのがすごい。
もちろん脳科学系のサイエンスノンフィクションには、本書よりもさらに専門的なものもあれば一般向けとしてよりおもしろさを重視したものも多数あって、本書はそれにとって代わるものではない。だが、総合的な脳科学入門として「まず脳科学についての入り口ならこれを読めばいいよ」と渡せる、おもしろくかつしっかりとした内容も伴った一冊ができたことを嬉しく思う。さらに知りたくなるようであれば、より専門的な本を読み込んでいけばいいのだ。
いつもならもう少し詳しく、本書の内容を具体的につまみながらこんな本だよと紹介していくところだが、「総合的な脳科学本」であるので一部分をつまむようなものでもない。代わりにいくつか、本書の後でも前でもいいが読むとおもしろい、深掘りできる本を並べておく。
記憶については、最近読んだ中ではこれが専門的でおもしろい。HONZのレビューはこちら⇛『健忘症患者H・M、アメフラシ、マウス、そしてヒト 『記憶のしくみ』』
「自分が人間だと信じられない」というほどに認知に損傷を負った著者がいかにして脳を回復させていったのか、その過程でどのような技術や知見が使われていったのかを体験記として綴った一冊。本書を読むと脳の可塑性とそれをもたらす現在の技術に驚くことになるだろう。HONZのレビュー⇛『脳はすごい』としか言いようのない『ある人工知能研究者の脳損傷体験記』
意識についてはこれが最近ではオススメ。意識があるとはどのような状態かを明確に定義し、意識が何を可能としているのかを誰もが納得できる形で実証するにはどうしたらいいのかを具体的な実験例とデータをベースにして語ってくれている。HONZのレビューはこちら⇛意識は過大評価されている──『意識と脳――思考はいかにコード化されるか』
ブレイン・マシン・インタフェースについて最前線(とはいっても2013年の本だが)が知りたいのならば上記の本をオススメする。四苦八苦しながらなんとか人間が動かせるものがあるぐらいで、念じただけで自由自在に動かすアームを装着するのはまだだいぶ先になりそうだ。
とまあキリがないのでこんなところで。脳は広いし、実験手法も進歩を重ねてデータもどんどん書き換わっている現状があるが、それだけにその動きを追うのはとても楽しい。