こんな話が出てくる。インドネシア・パプアで換金作物としてカカオを栽培している女性が、かなり広いはずのカカオ畑からほんの少し、重さにして3キロほどのカカオしか収穫してこなかった。なっている実を全部収穫すれば数十キロあるはずなのに、である。どうやら、食用油が切れたから、買い足すための現金を得られる分だけもいできたらしい。
本書は、市場経済中心のグローバル化の波にもまれ、ときには生活を脅かされながらも生き抜く人びとの世界や、そこにかかわる国際協力についての論考集である。世界経済を中心に考えれば、そうした人びとは周縁に置かれ、弱い立場にある。しかしそれぞれの論考からは、市場経済中心のものとは異なるグローバル化のかたちや、地域に根ざした多様な価値観も見えてくる。
市場の価値観に支配され、「どうしたら売れるか」「いかに稼ぐか」といったことに重きが置かれる社会では、収穫できるカカオは当然すべて売りに出すだろう。収穫量を増やそうと常に腐心することにもなる。同様に、冒頭のパプアの女性は「開発途上国の貧しい住民」に区分され、いわゆる先進国からの「援助」の対象にもなるだろう。しかし本書が示唆するとおり、カカオに−−金に−−支配されず、そのときに必要な分しか売らなくてもいい背景には、相当の豊かさと自由もあるのだ。
本書の主役である<小さな民>とは、多国籍企業などが推進する資源開発や工業化に翻弄され、生活圏を侵食されながらも、主体性を失わずにたくましく生きる人びとのこと。インドネシアを中心に東南アジアの開発や環境問題を研究した社会経済学者で、『エビと日本人』(岩波新書)などの著書で知られる村井吉敬(1943~2013)が提唱した概念である。本書では、バリ島の観光ホテルの従業員や、ジャワ島の「ジャムー(天然生薬飲料)」を売る行商人、四国の山深い村に嫁いだフィリピン人女性たち、そしてタイ・スリン諸島に暮らす「海の民」モーケン人など、多種多様な<小さな民>の生活世界が取り上げられる。
インドネシアの西端にあるアチェでは1970年代初めに天然ガスが発見された。これを液化天然ガスにして日本などに輸出するためにプラントが建設されることになり、それまでは畑や水田などだった土地が収用された。立ち退きを余儀なくされた住民たちは、紛争の混乱のなか約束された再定住地に移転することができず、ただ住むところを失い、分散した。
住民にとっては先祖代々から伝わる大切な農地や生活の場でも、市場経済の理屈でいけば安いプラント用地である。主流の歴史に残るのも、天然ガス輸出がインドネシア経済にいかに貢献したかということだろう。しかし天然ガスに限らず私たちが当たり前のように頼り、消費しているものが生産される背景には、人知れずないがしろにされた人びとの物語がたくさんあるのかもしれない。
他方で、<小さな民>と私たちをより直接結びつけてくれるのがフェアトレードである。本書では東ティモールのコーヒー生産やインドネシア・パプアのカカオ生産が紹介される。
フェアトレードとは、原料や製品を適正な価格で継続的に購入することにより、生産者の生活改善と自立を目指す「公平な貿易」とされる。日本にいる私たちはフェアトレード商品を買って生産者を支援した気になることができるが、その行為は生産者の本当の希望の実現につながるのだろうか? 現地の生産者と日本の消費者との接点で活動する著者たちの貴重な手記でもあるふたつの論考が非常に洞察に富む。とくに、生産者に寄り添い、対等であろうとすればするほど、彼らとの間に歴然とした不平等があることに気づくくだりは圧巻だ。
本書では、海を生活の基盤としてきたアジアの「海民」の世界も論じられる。かつてアジアからアフリカ東岸にまで広がっていた漁民や海洋交易者の世界は、西洋諸国による植民地化とその後の国民国家の成立によって分断されていった。たとえばアンダマン海のタイ・スリン諸島に暮らすモーケン人は、つい数十年前まで、乾季には船上で、雨季には海岸の杭上家屋で生活し、「気軽にビルマ領海まで」ナマコや夜光貝などを採りに行っていた。
そうした生活様式が先にあったのであり、それを違法な越境だ、密漁だとするのはいまの体制の都合である。とはいえそんな理屈が通じるはずもなく、モーケン人はまさに現在進行形で「国家や国境という上からの支配装置に組み込まれつつある」という。スリン諸島でナマコが獲り尽くされようとするなか、沖縄にナマコがたくさんいると聞いて「僕もパスポートをつくって、いつか日本に行きたい」と話す若いモーケン人の思いが胸に突き刺さる。
とにかく自分の「カカオ」の収穫量を増やし、高く売ろうとしなければならない気にさせられる社会で、なんとなく息苦しさを感じるときに、ふっと爽やかな風を入れてくれるような一冊。