冒頭の一文から引き込まれる。「あなたは性的に逸脱している。まったくの倒錯者だ」ときたものだ。
そして息もつかせぬ間に「手始めに僕から行こう。」と、自身の性遍歴を語り始める。思春期の頃にネアンデルタール人の裸に興奮を憶えたこと、高校生の時に想いを寄せていた男子が捨てたコーラの空き缶に興奮したこと、初体験の相手が足フェチのゲイであったこと…。
著者が、前著『ヒトはなぜ神を信じるのか』のジェシー・べリングであることを知っている人でなくても、驚きのエピソードの数々だろう。そして『ヰタ・セクスアリス』のような告白の後は、無限の領域に広がる「性愛」の世界を限界まで見せてくれる。
本書『性倒錯者 だれもが秘める愛の逸脱』はヒトのセクシュアリティについていま開花しつつある新たな科学と、もっとも奇妙な形のセクシュアリティのケーススタディーを重ねあわせることによって、「性倒錯者」という存在の核心に迫ろうと試みた野心的な一冊である。
根底にあるのは、「性倒錯者」の行動を「自然か、不自然か」といった観点ではなく、「有害であるか、否か」という観点で見るべきだという強い思いだ。この観点から眺めていくことの意義を知らしめるかのように、本書では大多数の人がどれだけ想像力を膨らましても思いつかないような事例がゴロゴロ掲載されている。
たとえば「有害」ということについて考える時、相手が人間でない場合にどうなるのかという疑問も湧いてくるだろう。これに対して、いわゆる獣姦という古典的なテーマについて触れられるのはもちろんのこと、鳥に対してのみ強烈な願望を抱く「鳥性愛」、隅・割れ目・裂け目・亀裂といったものに性的な興奮を抱く「隙間性愛」。そして自分の性感帯にアリ、ゴキブリ、かたつむり、カエルといった小動物をおいて、小さな口でかじられるのを楽しんだりする「昆虫性愛」というパターンまでもが紹介される。
なかでも興味深いのが、「対物擬人化共感」と呼ばれる症状をもつ対物性愛者の人々である。あるスウェーデン人の女性はベルリンの壁に夢中になり、ベルリンの壁と結婚した。ベルリンの壁がなくなった今、彼女は自分を未亡人だと思っているそうだ。
また、アメリカ人のエリカという女性には、エッフェル塔と結婚した記録が残されている。彼女はエッフェル塔を女性として見ていたので、レズビアンの関係であったそうだ。ちなみに、彼女がそれ以前に関係があったのは男性としてのゴールデンゲイト・ブリッジであったというから驚くよりほかはない。
これらの人々の多くは「有害か、否か」という線引きで見られるだけでも、救われる可能性があるのだ。そして数々の事例を紹介していくだけでなく、特有の性的刷り込みがどのようになされたのかという要因へも肉薄していく。
LGBTと呼ばれる人達への理解を深めようと、社会全体が変わりつつ昨今である。だが、歴史的偏見を正すことを急ぐあまり、私たちは社会として、性的多様性全体との不安定な関係を仔細に検討する絶好の機会を逸しつつあると著者は言う。LGBTの枠に入り切らない人たちは、今だ数多く存在しており、自ら選択したわけでもない性的性質を保持しているというだけで、苦悩に苛まされているのだ。
そもそもなぜ多くの人は、逸脱した性行動を扱うときに、自らの心的能力を適切に行使するのが難しいのか? その理由の一つに「嫌悪の要因」が挙げられる。このメカニズムを追いかけていくと、我々は体内の分泌液を伴う接触において嫌悪感を感じるという状態こそがデフォルトであり、性的な興奮状態に陥ると嫌悪感は麻痺し、結果として様々な営みが可能になっているという事実が露わになる。この嫌悪感こそが憎悪の直観的エンジンとなり、私たちの社会的知能を弱め、人間性そのものを危うくしているのだ。
もう一つ我々が頭に入れておきたいのは、「性的欲望」それ自体は本来的に無害であり、行動に移されてはじめて害が生じるということだ。行動がその人が考えていることによって強く動機づけられているという「転ばぬ先の杖」バイアスは、道徳的に合理的ではあるものの、論理的ではない。
本書を読んでいく中で気付かされるのは、我々は自分が思っている以上に平均的倒錯者と共通するものを保持しているということだ。にもかかわらず、私たちが特定の性的指向を持つ人を「性的倒錯者」と見なすのならば、彼らから見ても私たちは等距離の「性的倒錯者」と言えるだろう。また特定のセクシュアリティをステレオタイプに危険なものと捉えるのなら、同じように我々はステレオタイプに残酷であると見なされても不思議ではない。
著者は「倒錯」という心の理論に基づく概念を、道徳を説くヒトの心が生み出した幻影にすぎないとして、様々な角度から打ち砕いていく。性的逸脱は、その感情的な重みを取り去ってしまえば、統計学的概念にすぎなくなる。
ヒトのセクシュアリティについて普遍的なものなど、ごくわずかしかなく、むしろ全員が「倒錯」していることを指摘するのは、道徳ではなく、科学だ。そして「性倒錯」というものを通じて見えてくるマイノリティと社会のあり方は、さまざまな領域にも通じるところがあるだろう。
「性愛」というキワドいテーマをインサイダーの視点と、科学的な知見を織り交ぜながら記述されている本書は、「世の中」という獏とした存在へ向かって論戦を仕掛けていくような情熱と、社会はこうなっていくべきだという冷静さが見事なまでに共存している。その完成度の高さに、圧倒されるばかりだ。